投稿者
 メール
  題名
  内容 入力補助動画検索<OBJECT>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ teacup.コミュニティ ]

投稿募集! スレッド一覧

スレッド作成 他のスレッドを探す

[PR] ダブルワーク 中古車買取 新潟の求人・転職 seo 不動産投資
teacup. ] [ 無料掲示板 ] [ プレミアム掲示板 ] [ teacup.コミュニティ ] [ ブログ ] [ チャット ]

全98件の内、新着の記事から20件ずつ表示します。 1  2  3  4  5  |  《前のページ |  次のページ》 

(無題)

 投稿者:若松真貴恵  投稿日:2006年10月12日(木)12時23分49秒
  一部世界は日本の勤勉さや芸術的才能色彩感覚自力による独学努力で得た英知を実のところ嫉妬しているにもかかわらずそれを悟られぬため支配的な態度によってカモフラージュし劣等感ばかり増大するゆえに顔では賢ぶりながらしん中おだやかならず  

国民性変革のために「思い切って日本語を捨てる日」を読んだ感想

 投稿者:読者  投稿日:2006年 8月24日(木)22時03分10秒
  http://tawagoto.hontsuna.net/article/1749545.html

本のタイトルにちょっと騙された感がある...
というか、タイトルを見たときの直感そのままというか、
大方予想できたところがちょっともの足りない。
想像を越える「何か」をちょっとは期待して読んだのだけれど...

(長文になってしまいました...)

「思い切って日本語を捨てる」 − 実に思い切った意見。
しかし日本語を捨てた後は?
その後の日本人が言語なしで、というわけにはいかないから、
何か別の言語を採用するしかない。
(今更新しい言語を作る、というわけにもいかないだろうし)
その言語は... 何となく想像つくけれど。

というところから読み始める。
で、よんでいくうちに結局想像どおり、
採用するのはやっぱり英語なのね...
(まぁ、これぐらいは誰でも想像つくか)

しかし、日本語を切るには「思い切って日本語を捨てる」と
随分思い切った言い方をしているのに対し、捨てた後英語を採用する
記述になると、何故か歯切れが悪い。
「中国語ってわけにもいかないようだから英語かな」とか。
何となく消極的な書き方。
「思い切って日本語を捨てる」と書いた以上は、
「絶対に英語を採用すべきだ」というような類の
思い切った記述があって然るべき、と思い、
最後まで読んだにもかかわらず、英語に対する
思い切った記述は最後まで出てこなかった.....。

著者は「思い切って日本語を捨てる」だけが言いたかったのだろうか?
しかしそれでは片手落ち。
人間である以上は、ある言語を捨てれば、別の言語を使わざるをえない。
この手の意見はそこまで書いて初めて完全だと考える。
そういう意味では、「結論が腰砕け」という感じもする。
ちょっと言い方悪いかもしれないけれど、
著者自身こそ、日本の国民性そのもの、というようにも思える。

内容は、なんと書く同じようなことの繰り返しで、ちょっと読みづらい。
300ページぐらいある本だけれど、もっと簡潔にまとめれば
半分以下になるのでは、と思えるほど。
なにか脈絡なく書かれているように思えます。
そのせいもあってかどうかは分からないけれど、
書いてあることが変わってしまうことがある(しかも大事なことで)。

最初の方で、
「日本語はあくまでも民族国民性を決定する要因の付属的・付随的なものであり、表層的・表面的なものでしかありません」
と書かれてあったのにもかかわらず、本の後半では、
「言語が国民性と大いに関係するということに気付いておられる方はあまりおられないように思います」
という記述が見られる。

言語と国民性の関係については、この本の内容では
すごく重要なことなのではないでしょうか?
それが途中で解釈が変わる、というのはどういうこと?
結局、言語が国民性はどれぐらい関係があるのか
本人は分かって書いているのだろうか?
そういう疑問も出てきます。

ただ、日本人の国民性については、
よく分析されていると思います。
日本人の長所、短所。
海外でビジネスをしている上での問題点など。
その問題点が日本語の持つ特徴に起因することなど、
この辺りは誰でも納得できることではないかと思います。

ただ、この本でやたらと出てくる言葉に「グローバル化」というのがあります。
しかし「グローバル化」ってどういうこと?
単に言葉の意味だと 国際化、地球規模化. を意味するようだけれど、
この本で言う「グローバル化」はアメリカの資本主義、ビジネスの方法に
従うこと、のように思えてしまう。
では何? アメリカの世界戦略の片棒を担げ、ということ?
アメリカが現時点で経済も軍事も大きな力を持っているのは事実。
しかし、だからといってアメリカの「自分達の主義を正義」といって他国に
押し付けるやり方は正しいとは思えない。
そんなアメリカのビジネスの勢いに便乗するために、
日本語を捨てて英語を採用するのか?

それこそ日本という国が崩壊するのでは、と思える。
近いうちにアメリカの信託統治領になってしまうのではないだろうか...
(アメリカの51番目の州にすら編入してもらえない)

ここでやっと結論ですが (長くてスミマセン)、
日本語を捨てて英語を採用すれば、
日本人の国民性は変わるのか?
著者は日本語と英語の構造(文法)の違いから、「変わる」と
思われているようですが、私はそうは思いません。

その大きな理由は、実は著者自身がこの本の中で
延々と書かれているのです。

・過去(にかぎらず)西洋の言葉を取り入れている。
・最近の日本語は堕落している。
・日本人自身が日本語を変化させている。
など。
日本語自体も次々と変わっていっているのです。
このこと自体が日本人の国民性だと思います。
だからどうなのか、というと、
日本語を廃止して英語を採用しても、
「日本人の国民性は変わらない」ということではないでしょうか。

今でも新たな新語を次々と生み出す日本人。
日本人が英語を採用したところで、同じことの繰り返しです。
つまり、英語に「日本人が使いやすい単語」を次々と
加えていくわけです。
何かの本に、「言葉は生き物」というような表現があったような
記憶があるのですが、英語もその例に漏れず。
日本人が英語を正式に使えば、英語は日本人の国民性になった言語に
作り変えられてしまうわけです。
(私は学者ではないので根拠は示せませんが、上記のように感じます)

言語を変えたぐらいでは国民性は変わりません。
かつて日本が朝鮮半島を侵略したとき、
日本人は朝鮮半島で朝鮮人に日本語の教育をしたようですが、
朝鮮人の国民性は変わりましたか?

日本人の国民性を本当に変えたければ、
「日本列島を捨てること」だと私は思います。
アメリカ大陸でもヨーロッパでも、アジアのどこかでもいい、
日本列島を捨て、日本人全員が別の場所に移住すれば、
確実にその場所にあった国民性に変わると思います。
たとえ日本語を使っていたとしても。
(これは私の仮説です。誰か証明してくれないでしょうか...)
 

閉鎖的な島国役人根性の国民性

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 7月 9日(日)15時02分55秒
   今や、元寇の役、戦国時代、幕末動乱、日露戦争、そして大東亜戦争時と並んで過去の歴史の中でも最大の難問山積の国難に直面しつつあるようです。目下、戦後のあらゆるシステムが制度疲労を起こして、適切な解決策も見出せない中で迷走し、また改革の理念や目的、意義なども曖昧なままに、国民的理解を得られずに、次第に破局ないし崩壊に向かっているように懸念するものです。

 そもそも、現在の危機が目に見えにくいこともあって、現状に対する正しい認識に乏しく、現状分析能力から正しい解決策に至る思考や行動に大きく問題があるように思います。国家自体にも国家戦略的な危機管理がなく、国民全体にも危機感が全くなく、国家主権の喪失すら感じられるのが最大の危機でもあります。

 然るに、今時の難局に対して、一体何が大きな障害として根底に横たわっており、何を排除し改訂していかねばならないのでしょうか。思うに、崇高で立派で真正な法制度を確立するのが大切なのは当然ですが、現在の破綻する寸前の状況にまで追い込んだ最大の元凶である原因を考え、また改革を実行するために最大の障害となっている要因にメスを入れてみることが大切ではないでしょうか。

 そして、幾多の法制度の改革とは言いながら、それらを正しく解釈し運用していくには、やはり、正しい心魂で実施していくのは当然であり、そうなると、根底には国民や関係者の心理や行動が大きく関係しており、どうしても意識の変革こそ最大の要因ともなってくるように思います。

 さてズバリ申せば、今時の変革の最大の対象こそ、実に国民意識であり、この最大の背景や要因こそ、既に多くの有識者から指摘されているように、官僚の意識構造であり、俗に言う、役人根性であり島国根性であろうと思います。

 官僚社会は、焦らず、慌てず、争わず、また遅れず、休まず、急がず(働かず)と揶揄されるように、曖昧模糊とした無責任体質、調和を重視し批判を封じる集団主義、無節操・無定見な変節漢、冷淡で無慈悲で無関心な非人間的社会、猜疑心旺盛で近視眼的、形式を重視し個性排除の陰鬱な社会、出る杭は打て・沈黙は金・長いものには巻かれろの自己主張させない閉鎖的な社会、内向き・後ろ向きで縮みの消極性、足の引っ張り合いで嫉妬や妬みの充満する葛藤社会、裏切り・密告の横行する社会、一般常識と乖離し建前と本音を巧妙に使い分ける社会、頑迷固陋の教条主義、換骨奪胎や骨抜き・誤魔化し・二枚舌で詭弁を弄する狡猾性、全てを曖昧に相対化する意識、実質・内容よりも形式・外見・メンツ・世間体・序列に囚われ拘る社会、虚栄・虚飾に満ちた形式主義で本質を読めない近視眼的島国根性、創造や挑戦よりも先例・前例主義・安定志向・減点主義の事勿れ主義、難問回避で問題解決先送りの体質などが蔓延しているようです。もっとも、愚直性や硬直性、くそ丁寧、ばか丁寧、くそ真面目、ばか真面目などばかりでもなく、健気で律儀、勤勉性、実直性を有しているという二重性もあります。

 こうした大方の非常識極まる役人根性に共通するものは、大した改革志向はなく、現状維持の保守主義であり、既得権益の維持であり、閉鎖的な自分中心の利益追求であり、それらが天下り優先の政策を実施しているものでしょう。これは米国ならば、一番優秀な者はチャレンジ精神を発揮して自らベンチャービジネスを起こし、その次は他のベンチャー企業や中小企業に参加し、そして大企業に行き、最後に官僚になるというものです。

 然るに、日本では全く逆であり、ペーパーテストと点取り学業の優秀な者ほど、最も安定した官僚の世界に行き、安定した政策を担当し、三権分立でありながら、自ら法案を作成して国会に上程し、往々にして、交換人事などで裁判にも影響を及ぼしていく傾向があります。今や官僚的意識構造は、二世、三世議員や官僚出身者の増加を反映して、政治の世界にも及んで政治の官僚化をもたらしており、また民間世界でも官僚以上に官僚的世界が蔓延しているのが現実でありましょう。

 しかし、この官僚的気質の役人根性なるものこそ、実に本質的には日本人全体に共通する国民性そのものであります。たまたま、官僚の世界でこそ、顕著に特性が表れているというだけであり、誰が役人になっても、即ち、同じような権威や権力を行使する境遇に至れば、同じような気質を発揮するものであります。

 実に国民社会全体に、甘えや集り、もたれ合い、馴れ合い、つるみ合いのまあまあ、なあなあの野合・談合社会を形成し、個性を確立できずに排除否定する集団主義を生産し、批判や自己主張を封じる無責任の横行する似非調和主義、挑戦や競争を本質的に嫌悪し排除する現状固定主義、そして嫉妬や妬みによって出る杭を打つ画一的で横並び意識、個性尊重の創造精神よりも無節操で無定見な模倣・盗用社会の似非活力ある社会を蔓延させていると言えるでしょう。

 即ち、今や国民全体が頑迷固陋に現状維持の既得権益者であり、改革の抵抗勢力となっていると言えるでしょう。今や歴史的難局に際して、種々の法制度の改革の根底に存在する要因こそ、実に歴史的に育成されてきた国民性の大変革に他ならないと指摘する所以でもあります。

 かつてソ連崩壊に伴いソ連の初代大統領になったゴルバチョフ氏に、日本人記者が「ソ連では共産主義が失敗しましたね」と聞いた折に、彼は「確かにソ連では共産主義は失敗したが、世界で唯一、共産主義が成功した国がある、それは日本だ」と言ったことが伝えられているように、日本は実に創造や起業、競争、挑戦を原則とした資本主義と言うよりも、株式の相互保有の面を考えても、資本主義という仮面を被って、官僚主導の画一的平等主義を追求し、護送船団方式を実践してきた共産主義国家であると言えるでしょう。

 戦後、米国占領軍司令部の最高指導者マッカーサーは、財閥解体、軍国主義解体の大改革を実施しましたが、幸か不幸か、官僚機構だけは、占領政策の推進のために利用し、そのまま温存してしまったようです。

 この官僚機構は戦時体制であり、国家社会主義体制でもあり、高度経済成長には、集団主義、護送船団方式、キャッチアップ方式、画一的横並びの競争主義である程度貢献したものですが、既に一九九〇年のバブル崩壊以後、長引く経済の低迷と共に、一向に進展しない状況に対し、これまでの体制が制度疲労をきたし大きく行き詰まってきたようです。

 即ち、外国に手本があり、国民が必死になって頑張ってきた内は、官僚機構はただ方針だけ示して、その路線に乗って肥大化していけばよかったのですが、今や経済が行き詰まって、年金も税収も破綻しつつある中で、意識変革も方向転換も出来ずに、次第に無責任、無関心、無感動、無気力が蔓延し、幾多の欠陥が露呈してきたようです。実に従来のやり方が通用しなくなって新たな方途を模索していかねばならないのに、過去のあまりにも官僚に依存した成功体験が、改革の最大の障害になってきたようです。そもそも一体何が崩壊の原因であり、また真の解決の方策であるのか、全く盲目になっているものであり、実に旧ソ連の崩壊前夜と同じ現象に陥ってきたようです。

 既に指摘したように、現下の危機に際して、改革を大きく阻んで亡国に導こうとしている最大のガンや寄生虫は、実に現状維持に固執する役人根性に代表される国民性に他ならず、この役人根性や官僚体制を根底から改造することでしか、日本の歴史的再生は有り得ないように思います。

 今やこの官僚体制、役人根性は甘えや集りとなって国民全体に蔓延して、既得権益擁護の島国根性として、国民全体の意識変革が迫られているように思います。それと合わせて、歴史的大改革を実施するリーダーの登場が必須でありましょうが、官僚任せの単なる丸投げ、投げやり、やりっ放しではなく、崇高な指針・理念と、展望、意志、情熱の下に、自らリーダーシップを発揮し、国民を指導する身命を賭した指導者の登場が求められていると言えるでしょう。

 それには、出る杭は打つといった嫉妬や妬みの強い日本人の国民性をも大きく是正していく必要が出てきたようです。何故なら、何でも形式やしきたり、そして先例、前例、先入観や固定観念、既成概念に囚われて行き易い日本人の国民性では、真の指導者を選択すら出来ないものと思います。

 正に混迷し破綻する日本の現状に対して、根底から改革をしていかねばならない最大の課題こそ、この嫉妬や妬みが充満し、形式に囚われ閉鎖的な国民性の変革にあると言えるでしょう。実に国民性の変革と、崇高な指導理念による指導者の登場とは正に一体であろうと思います。

 歴史の転換における障壁として、幕末においては、封建的身分体制に固執した武士階級の頑迷な思考が、近代化を阻んでいたとも言え、大東亜戦争時においては、硬直化した軍人思考や行動が国際情勢の把握に関して、大局的視野や柔軟性に欠けていたことは否定できません。

 そして、今時の改革を阻んでいる存在こそ、無責任、先送りの官僚システムであり、役人根性であり、閉鎖的で近視眼的な島国根性に他ならないものと言えるでしょう。この島国根性という根本的な意識は、数百年前から、何ら変化していないものであり、それ故に、今時の改革は実に歴史上最大のものとなっていかざるを得ないと思います。

 なお、大局的視野とか国際感覚とか言うのは、何も英語を話しているから国際感覚が豊かで、外国的思考が理解できるという単純なものではなく、囚われない世界的(グローバルな)視野で発想が展開できるかという、正に独創的、創造的で洞察力や先見性に富んだ柔軟で気宇壮大な思考が可能かどうかに係っているものでしょう。

 何も英語を話せなくても、外国人の気持ちが理解できたり、国際感覚が豊かな者もいるし、反対に外国語が話せても、思考は悪い意味での旧来の日本人的島国根性、役人根性に凝り固まった発想しか出来ない者もいるのも確かでしょう。要は、従来の日本語感覚では大局的視野や国際感覚が切り開かれていけないことが多いものと思います。
 

↓.幻視、幻覚、幻聴などの魔感に真実などない

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 7月 3日(月)23時12分57秒
   アカシックレコードなるものは、霊界に残留する記憶であり、人間の脳裏にも残留するものであろう。畜生死霊魂の魔であるならば、魔力が強いほど、人類創世記からの、また地球創世記からの事件なども記憶し探査出来るものであろう。過去、人類はそうした魔力を求めて、生け贄の儀式を捧げて、魔力を行使してきたものだ。

 もっとも、その結果は、魔による祟りと天罰を食らってきたものだ。古来、触らぬ神に祟り無しと言われてきた所以でもあろう。そうした危険性を知らずに、現在でも、西洋の秘密結社などでは、継承しているくらいだ。

 このアカシックレコードも、霊感情報も、あくまでも、魔を通した魔界からの霊示であり、必ずしも真実のものではない。霊感を駆使する者の心魂のレベルにより、憑依する魔により、面白可笑しそうに、惑わし、誑かし、誤魔化しが氾濫していると見た方が良いものだ。

 我々が見る夢にしても、真実の記憶や正夢もあれば、幻想、空想、夢幻もあるくらいだ。それと同じようなものだ。旧約聖書にしても、また仏教経典にしても、また古事記や日本書紀にしても、直接の体験や伝承のみではなく、多くは魔感や霊感で書かれたものであろう。そんなものは、真理もあるだろうが、あくまでも参考にしかならないものだ。

 真理、真実、真相、真髄は、そのような魔感で会得されるものではないのだ。輪廻転生界は幻想、虚偽、虚構の世界であり、実に、畜生死霊魂の魔が氾濫し充満し横行し、正に魑魅魍魎の暗躍し跳梁し跋扈する魔界、魔海に他ならないものだ。真実など何処にもないのは、人間の邪悪な想念が氾濫し蔓延しているからだ。

 大宇宙は、大自然界の魔界である輪廻転生界と、神聖で崇高な真の神仏、即ち、大宇宙の創造主の鎮座される宙天とに厳密に区別されているものと思われる。宙天への扉こそは、不浄な心魂では堅固に閉鎖されており、正に、釈尊が為し得た悟覚、如来の世界に他ならないものだ。

 巷間、言われているアカシックレコードなるものは、単なる輪廻転生界の事象に他ならないものだ。肉体を有しての霊感などは、全て魔感であり、当たるも八卦、当たらぬも八卦の世界なのである。そんなものを有り難がって、インターネットを検索してウロチョロし、右往左往しても、何が真実かが一向に解らず、惑わされるだけであろう。

 それに、多くのアカシックレコードや霊感情報なるものからは、魔界の現象面は把握できても、解決策や真の因果関係は何ら得られないものであろう。魔に頼ること自体が他力本願であり、そこには悪魔しかやってこないからだ。知らずの内に協力する善魔とは、無意識で自らの心魂を浄化したところで、魔の方から協力するものであろう。

 したがって、霊感を求めるものではなく、自らの心魂を浄化し錬磨し向上させることが大切なのだ。そこでは知らずの内に、善魔の神仏が真実に向かって上手く誘導してくれるだろう。アカシックレコードにアクセスすること自体が、卑しい打算や目的、欲望の産物であり行動でしかないものだ。

 もっと、何故に、肉体を脱却して宙天に到達し、「如来(来たるが如し)」と言われたのか、悟覚とは何か、仏智恵とは何かなどについて、心魂を清浄、素直にして、虚心坦懐に考えてみることだろう。通俗的な霊感に関する知識だけでは理解不能であろう。
 

真実

 投稿者:鞍馬天狗  投稿日:2006年 7月 1日(土)09時19分34秒
  歴史の真相を知りたかったらアカシックレコードにアクセスするしかない!
やってみる価値はあるのでは?
 

愛とは

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月30日(金)23時39分20秒
   多くの人は愛という言葉を乱発はすれど、真に愛とは何のことか解ってはいないようである。作家や道徳、倫理、宗教などの専門家などからも、愛について、様々に解説されているが、本当のところ、真実を語っている者は案外少ないのではないかと思われる。

 愛とは実に心の在り方における極致のものであるからこそ、愛については、最高の心、至福の心にまで思いが至ることが大切であり、喧噪と混乱、打算と売名、利欲と欲望の渦に埋没した生活環境の中では、頭で理解できても、心そのもので理解することは殆ど不可能ではないかと思われる。やはり、心を清浄にした上でこそ、愛とは如何なるものかが、真底から理解できるものではないかと思われる。

 よく、愛が壊れたとか、愛が終わったとか、愛は虚しいものとかいう表現を使う作家や評論家の方々や週刊誌が多いが、愛の何たることが全く解っていないと言えよう。正確に言えば、愛(の繋がり)が壊れたとか、愛(の繋がり)が終わったと言うべきであろうか。愛が終わるとか壊れるとか、虚しいとかは全く有り得ず、そのようなものは、とても深淵で崇高なものとは縁遠く、真実の愛ではないと思われる。もっとも、偽りの愛とか、一時の愛とか、実に言葉の遊びが氾濫している中で、一体何が真実かは理解できないのが現実であろう。

 キリスト教では、愛に関して専売特許のように自負し、愛の発明者、創造者のように喧伝して、愛を唱えて解説する聖職者は多いが、本当に、愛について真底から理解しているのであろうか。キリスト教では「汝の敵を愛せよ」という格言もあるようだが、歴史的にもキリスト教徒は、愛を掲げて互いに戦争をし抗争を繰り返してきた経緯もあるのは事実であろう。果たしてこれで、愛の心とは如何なるものかを理解し実践してきたと言えるのであろうか。愛は憎しみなどと屁理屈を言って誤魔化している場合ではないだろう。

 こうしたキリスト教の戦いの歴史を見ても、また植民地支配や奴隷制度、そして残虐な征服の歴史を見ると、果たして愛の歴史であったのかと疑問が湧いてくるものだ。またキリスト教徒の精神の支柱となっている聖書の中には、余りにも激しい嫉妬や、憎悪、怨念、復讐、罰などに満ちた言葉の氾濫を見ると、やはり、愛については、根本理念において、実に余りよく解っていないのではないか思われる。

 キリスト教で言う「汝の敵を愛せよ」とは、「敵対する相手の敵を無条件的、無原則的にそのまま愛せよ」というものではないように思われる。互いに敵対し抗争をしている最中の相手を、愛そうと努力しても、それは互いに自己の利益を主張をするばかりで不可能であり、相手の立場に立って考える余裕などありはしないのが現実だ。逆に、冷静さを通り越して泥沼化し、益々火に油を注ぐだけに終わることであろうと思われる。実際において、キリスト教の激しい宗教戦争の歴史を見てくると、正にキリスト教で言う「汝の敵」とは、自分たち同胞の中での敵でしかなく、真の敵をも寛大な気持ちで愛することではないように思われる。

 この「汝の敵を愛せよ」における真の解釈は、むしろ冷却期間をおいて、沈着冷静に考えていく中で、相手の立場を充分に考慮する時間を取った上で、「汝の敵だった者でも、心を入れ替えてきた時には、一切の過去の経緯やわだかまりを忘れ切り捨て投げ放って、愛していくことだ」と言うことであろうと思われる。そこにこそ、あらゆる怨念や対立、恩讐を超えて、寛大で普遍的な真の愛を見ることが出来るというものであろう。

 思うに、愛とは、永遠、永久、普遍の心を言うものであろうと思われる。即ち、愛とは、如何なる環境、境遇、姿形の変化によっても、何ら変わらない心であろうと思われる。換言すれば、何ら先入観や既成概念などに囚われることもなく、ただ素直に受け入れることの出来る心であろうと思われる。むしろ人間的とも言える喜怒哀楽、毀誉褒貶などの激しい感情の起伏もなく、あたかも神々しい神の心の如く、何物に対しても不変・不動の心を言うものであろう。即ち、相手の境遇や姿形、年齢や地位など、実に様々な要因によっても、何ら損得や打算などの感情的判断すら入り込まないほどの、実に永久不変の心、広大無辺の心であろうと思われる。

 ところで、世間では、「恋愛」とか言っているが、「恋(する)」と「愛(する)」とでは、両者の意味概念は全く正反対であり、両者の心は天地の相異があると言える。即ち、愛とは慈愛であり、恋とは悲恋のことである。慈愛の心は無上至福の天にも通じる心であり、悲恋の心は、嘆き悲しみの地獄に通じる心であり、実に両者には天地の差異があるものだ。この「恋」とは、亦の心であり、二股の心であり、絶えず変化し移ろい易いものである。一方の「愛」とは如何なることがあっても変化しないものであろう。そこで、世間一般で言われているような状況の変化・変遷によって変化する心というのは、「愛の心」ではなくて、むしろ「恋の心」と呼べるものだろう。

 愛には終わりや破綻はないもので、終わりや破綻があるのは、それが一時的で打算的で単なる姿・外見に恋い焦がれた単なる恋(亦の心)に過ぎないからであろう。愛の心とは、たとえ相手が財産を無くして無一文になろうが、刑務所に行こうが、交通事故にあって身体障害者にでもなろうが、相手に対する心は何も変わらないものである。愛とは、相手の内面の心に惹かれるものであり、外見の変化には左右されないものであろう。

 恋の心は、こうした事態の変化により相手への心も変化していくものを言うのである。多くの人は打算と利欲で出会い、そして打算と利欲で離別していくものであり、結婚も恋でし恋で離別していくのである。恋とは別の表現で言えば、打算であり、利欲的であり、外見や姿や形に惚れることである。そうであれば、外見や姿形が変化すれば、当然に相手への思いも変化するものである。恋には、嫉妬や妬みや悲しみ、苦しみ、そして心に絶えず不安や苛立ちが付きまとい、心は暗闇の中を彷徨い、地獄へ直行することになるのであろう。

 今や、著名な作家や評論家の方々の有名な文学作品から、一般大衆の会話や週刊誌に至るまで、実に、愛の言葉を安易に弄んで連発し、愛が壊れたとか、愛が終わったとか、愛は虚しいものとかいう表現が頻繁に使われているが、愛の何たることが全く解っていないと言えよう。これなどは全て愛ではなく恋であろう。実に恋が終わったのであり、恋が壊れたのである。愛は不変的で寛大なものであり、愛には恋のような終わりや崩壊は無いというものだ。

 即ち、愛には安らかな心でもって何事にも満足を覚え、健康にして闊達な人生行路を歩むが為に、何も悲しみや嫉妬や妬みや苦しみもなく、また苦悩の地獄の魔界に引きずり込まれることもなく、極楽への階段を上っていくことになるのであろう。また、愛とは単に対人関係に留まらない。何事に対しても愛の心で日々の生活を送っている者には、安穏なる人生が待っており、苦しみや絶望やも無いし、真の神仏の加護があり、様々な混乱や混迷等の障害からも守護されていくものと思われる。

 ところで、愛に通じる言葉として「素直」と言うものがあるが、これなどは実に変わらぬ心と言うものであり、一見するとまるで馬鹿の心とも言えるものである。即ち、素直な心とは、如何なる場合でも相手に抵抗や反発することもなく、無条件に同意するほどの馬鹿の心であり、如何なることがあっても何ら変わらない愛の心に通じるものである。例えば、相手が破産状態であることが解ったり、前科者だと解ったりしても、また病気や怪我をして、相手の境遇や姿形が変化しても、相手に対しても何も変わらぬ心ということである。

 ところが、打算や利得に流されやすい恋の心では、そうした事実の発生によって、大きく心が変化するものである。たとえ、外見的には素直な心を装っていたとしても、大きく心が変化していくならば、これは単なる世間知らずであったと言うことである。即ち、「幼稚」と言うことであったものだ。この素直と幼稚との比較も、実に愛と恋によく似ていると言えるであろう。

 また、「愛情」と「同情」とも大きく心が相異するものである。同情とは単に打算や意識的や憐憫の心で接するものであると言えるが、愛情とは広大無辺で何の打算や意識もないところに行う行為であると言えるだろうか。卑近な一例を挙げれば、困っている人にお金を差し上げるのに際して、財布の中味を確認しないで財布ごと差し上げるときは愛情の心が強いと言えるであろうし、また、財布の中味を吟味し、差し出す金を計算しながら差し上げる際は、同情の気持ちが強いと言えるであろう。

 世間では、愛の心の生活に無味乾燥の退屈や嫌悪を覚え、逆に、混乱と不和、絶望と対立、抗争を持って、感情的にも充実した人間的生活等と倒錯した価値観を吐露する向きも多いようだ。実に、世紀末現象と言っても良いだろう。現に多くのドラマに描かれているものは、愛と謳いながら、その内容は実に波瀾万丈の喧噪でしかないもので、愛とは程遠いものを感じさせられるものだ。

 もっとも、喜怒哀楽もない真の愛では、確かに無味乾燥であり、愛の無い世間では全く受け入れられないもの確かである。因みに、現実から逃避した漫画の世界や、遊離した歴史的物語の世界では、愛に満ちたドラマも多いのは事実であろう。現代物は、余りにも世相をそのまま反映させていく故に、愛とは無縁の内容になっていくものであろうと憂慮するものだ。

 ところで、現実の世界では、男女必ずしも愛の心が平等というものでもないようだ。よく女性は嫉妬深いとか、憎しみが強いとか、近視眼的であるとか、また男はあっさりして拘らないとか、遠くを見ているとか、色々と言われることが多いが、確かにこれは真実の一端を付いているようだ。即ち、恋に関しての男女の対応の差異について観察するとよく分かるというものだ。

 日常の世界でも男女の三角関係を想定すると、一人の女を奪い合う男同士の争いは、割と簡単にあっさりと決着が付くようだが、逆に一人の男を奪い合う女同士の争いは、何時までも終了することはなく、最後は泥沼化していくことが多いようだ。こんなところにも、愛の奥深さに関して、男女の心の差異が良く現れているのではないだろうか。もっとも、最近は男性の女性化、女性の男性化が氾濫しており、必ずしも、原則や定説通りには当てはまらなくなっているのも事実であろう。

 なお、愛の心も外見からは余りよく解らないものであるが、自分自身の心を清浄にしていくことによって注意深く観察すると、理解できる場合もあるものだ。例えば、よく愛の表情が現れているといわれるものに、有名なレオナルド・ダヴィンチのモナリザの絵画があるが、この微笑は、仏教で言う拈華微笑とも比較されて、崇高で慈愛に満ちた安穏の極致のように指摘されているものだ。

 しかし、これなどは、聖心先生がご指摘されたところによると、極めて狡賢い女の微笑であり、とても拈華微笑と言えるものではないように思われる。事実、某研究者の話では、作者のレオナルド・ダヴィンチは何も女神や天女を描いたものでは無く、ごく普通の村娘を描いたと言うことらしい。それを後世の人々が美化して聖母マリアにも似た天女化していったものと思われる。しかしながら、目は口ほどにものを言う例えの如く、口元にその狡猾な表情が現れているものと思われる。口ほど、眼と同様に表情を良く現すところはないようだ。

 さて、愛とは、何事に対しても変わらぬ心だが、例えば、食べ物に対しても何も好き嫌いの感情を発することもなく感謝して食べれることであり、天候に対しても不平や不満の気持ちを表すこともなく感謝して生活し、また、境遇に対しても満足して愚痴や不満を示すこともなく、更には、対人関係においてもなんら高慢や卑屈の態度になることもない、健やかで安らかな心であると言えよう。これは何も現状に甘んじて努力を放棄し長いものに巻かれろとか、消極的になったり後ろ向きの姿勢になったり、妥協していくと言った次元ではないことを理解されるであろうか。

 ただ注意し厳密に区別しなければいけないのは、同じ満足でも、精神的な満足を言うのであって、単なる物質的な満足である場合は、恋の心と言わざるを得ないものだ。それは物質的に破綻すれば、自ずと心に変化が現れることでも理解できるというものだ。要するに、単なる外見だけでは、愛の心か、恋の心かは容易には解らないと言うことでもある。

 むしろ愛の心では、何も苦しみや悲しみを感じないところに、その心は天空を舞うように、自由自在、緩急自在、融通無碍、自由奔放、変幻自在、天衣無縫といった実に伸び伸びとした闊達で健康な生活を享受出きるものである。社会的にも大いなる活躍が出きるということにも繋がってくるものである。国家社会の根底に流れる各種の政策に対しても愛が基本でなくてはならないのであるが、政策当局者をはじめ、国民の多くが、実に、愛という概念が何も解ってはいないのではないだろうか。世相の混乱は実に国民各位の心の混乱の反映に他ならないと言えるであろう。
 

運命とは(自ら命・心を運ぶこと)

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月30日(金)23時38分16秒
  (1)善運・悪運

人それぞれに運、運命、運気というものがある。国家社会にも、国運と称されるように、個人と同様に運、運命、運気というものがある。共に、人々の心、国民性が大きく関係するものであろうと思われる。これは心が変化すれば、また運も変化すると言うことでもあり、心の舵取り、国民性の変革によっては、運もまた変更できるというものであろうと思われる。そしてこの運にも、後述するように、良い運と悪い運とがあり、性質も良く似た面もあるが、大きく異なる面もあるように思われる。

 殆んどの人の災難は、実に運命であり、心や実践の在り方次第では回避されるものである。正しい心で、相手の立場や心の状態を慈愛深く正義に適って考慮し、摩擦や対立を回避しながら柔和な説得力でもって実践して行くところに、人々との摩擦や衝突は少なく、安隠なる心の下での平和な生活が享受し得ることになるものと思われる。

 ところで、運命の外に、良く似た概念として、天命や宿命があり、殆どは何も区別しないで曖昧に使用している嫌いがあるが、厳密には大きく異なる概念であろうと思われる。即ち、天命なるものは、それこそ天の定めとでも言えるもので、真の神仏の為せるものでもあり、真の神仏が現世には存在もせず、降臨もしないと思われる故にこそ、現実には殆どあり得ないものであろうと思われる。また宿命とは、人間の力では不可避的なものであり、既に規定方針として定められた決まり、方向、針路とでも言えるものであり、例えば人にとっては、誰にも訪れて決して避けられない「死」であろうと思われる。正に、死とは、人間誰にでも平等に訪れるものであり、これこそ宿命であろう。

 また、天命や運命に良く似た概念で、宗教界で使用される用語に法難や受難がある。この厳密な区別も曖昧なままに使用している場合が殆どであろう。宗教界では、よく「法難」とか称して、過激で不調和な言動や、それによって自らに降り掛かる災難を美化していることが多いが、「法難」というものは、正に、自己の心に何の誤りもないところに天から受ける難で「天命」であり、天命が殆ど有り得ないのと同じように、「法難」も殆どあり得ないものと思われる。

 殆どの人が経験する災難は、自らの心が招くものであり、運命であり、単なる「受難」とも言えるものであろう。多くの「法難」と美化されるものは、実に自ら招いた「受難」であろうと思われる。実に自分自身の過激で偏って中庸を欠いた心から、畜生霊に付着され支配されて、その利用と感謝の忘却から、人々の反発、反感を買って受けた罰としての結果の「受難」であると思われる。正に、受難こそは、自己の誤った心や実践によって周囲との不調和を招いて生じるもので「運命」と言えよう。実に運命とは、災難でもあり、自らの心が原因となって、因果応報、自業自得の下に招来されてるものであろう。

 ところで、この運命においても、個人の場合でも、人によっては、簡単に手に入りやすい人とそうでない人との個人差もあるようだ。単に各人の心の相違によるもだとしても、その心が顔や形に表れるものであるのも確かだ。例えば、福耳の人はよく運があるとも言われているようだ。即ち、耳たぶのところに米粒が乗っかかる人の耳が福耳というものである。様々な組織において、能力が良く似たもの同士のうち、どちらかが抜擢されるとした場合に、大抵、好感を持って抜擢されるとしたら、こうした福耳の人が多いことも事実であろう。福耳の人は周囲への人当たりも良いことも事実として多いようだ。そんなわけで、世間では、福耳を有する人は、往々にして、他人や周囲に対する和やかな心を有しており、運にも大きく関係していると言われてきたものであろう。

 また運勢でも、自分から積極的に挑戦して勝ち取ることが可能な人もいれば、自分から動いても勝ち取れない人もいるようだ。即ち、自力で周囲を押しのけて獲得するよりも、周囲の引き立てや理解、協力があって初めて自力による運勢をものにし、勝利を勝ち取ることが出きる人もいることは否めない。これも、自力で運を獲得するとしても、各人の個性や性格によって、対処の仕方が異なるというものだ。ここにも、運を目前にしても、上手く把握できる人と、なかなかものに出来ない人との相違があるというもので、他人の方策がそのまま真似できない背景があるというものだ。

 歴史的に見ても、戦国乱世において天下統一を成し遂げた徳川家康は、こうした待ちの運勢に乗じた人物であったと言えよう。「人生は遠き道を重き荷を背負って歩むが如し」の如く、「急いては事を仕損じる」を真底から理解していたとも言えよう。一概に焦って挑戦していけば、誰でも運勢が開けると言った単純なものではないようだ。逆に焦って藻掻けば藻掻くほど、運から見放されていく場合もあるというものだ。

 大器晩成という言葉も、誰にでも当てはまるものではなく、人によっては、人生の早期に挑戦していくことによって、自らの運を切り開いていける場合もあるものだ。またそれこそ、慎重に歩んで言ってこそ、最後に運を掌中に収める者もいることも確かだ。余りにも早く駆け上がり過ぎて、最後に大きく高転びすることも有り得るものだ。この運気には、実に背後の心の在り方が大いに関係しているものだが、善運と悪運の相違でもあるものだ。

 そこで、この運気、運命について、思い付くままに考察してみよう。この運気は決して単独で存在するものではないように思われる。運気のあるところには、必ず一心不乱に精神集中した根気があり、その根気の延長に運気があると思われる。試験でも事業でも、何事も成功の秘訣は、運気、根気、鈍気の三位一体が大切であると言われる。運気は、当然ながら、自らの努力・自力で、何処までも決して諦めないという持続心にこそあるものだろう。何故なら、何も努力もせず、他力本願の神頼みの心には、運気も有り得ないのは当然だろう。また周囲の雑念にクヨクヨ、イライラと囚われない鈍感な心、即ち、鈍気の、この三つが必須となるものだろう。この運気には、善運と悪運があるものだ。

 この運は、個人の人生でも、国家の歴史でも同様のことが言えるであろう。こうした運気も、実に各個人の心や国家社会の国民性が大きく関係していると言えるだろう。その心に招き寄せられた背後には、様々な動物霊である畜生死霊魂が関係していると思われる。その畜生死霊魂の作用が悪にも善にも働き、畜生死霊魂も悪魔、善魔として作用するものと思われる。悪魔や善魔とは、実に古代から多くの人々に神仏として崇められてきたものであり、我々の身近に何処にでも存在するものであろうと思われる。八百万(やおらよろず)の神々と言われる所以でもあろう。

 なお、人間は、個人として単独で生きているのではなく、背後には祖霊や畜生死霊魂である背後霊がぴったりと寄り添い、共に魂の向上を目指して生きているものと思われる。死霊魂は、生きている者に縋って、魂の向上や浄化を求めているものと思われる。それ故に、嫉妬や妬みから罰を当てるというのも、縋ってきて救助を求めていると言うのも、何れの見解も正しいものと思われる。人々が念じるところ、想うところ、意識するところ、願望や欲望の想念を発するところ、何処にでも想念が宿ることになり、それに引き付けられた畜生死霊魂が、神仏、即ち、善魔や悪魔として招来されて、宿り付着し憑依していくものと思われる。

 ところで、悪魔が作用する悪運とは、欲望や願望が人一番強烈な心にこそ招き寄せられて来るものであろう。そして悪運とは急激に運気が上昇していくが、最後は魔の祟りを受けて大きく後退したり、落下していくものであると思われる。よく、運が良かったとはいうものの、単なる偶然でありマグレの類でしかないもので、マグレ運とでも言えるものだ。マグレ運も、一種の悪運であり、直ぐに後退したり消滅していくものであろうと思われる。悪銭身に付かずと言われるのも、簡単に手に入るようなものは、マグレ運でもあり、悪運とも言えるものであろう。

 個人でも急激に出世したり、金持ちになったり、有名人になったりする場合には、大抵、自分自身の欲望や願望の強さによるもので、悪魔の作用による悪運の方であろうと思われる。急激に出世したり金持ちになったりした者の実に多くが、最後には悲惨な境遇に落ち込んでいくことが多いのも、こうした悪魔、悪魔神、悪魔仏の天の仕組みによるものと言えるであろう。

 他方、善魔が作用する善運とは、欲望や願望もない心に魔の方から逆に協力してくるものであろうと思われる。善運は、容易には運気が向上しないが、ゆっくりと上昇して行き、容易には後退したり、落ち込んだりはしないものと思われる。善魔の作用する善運とは健康的なものであり、安らかな心や快活な行動に表れ、活動的な心の下に運気もゆっくりと上向いて行くものであろうと思われる。大器は晩成するような運は、ゆっくりと歩み後退することもなく善運であろうと思われる。

 また、聖心先生によれば、運気、即ち、自分の運命・運勢は、実に三割ほどしか変えられないものだと言う。即ち、運勢の内、先天的なものは七割を占め、後天的なものは三割であり、この三割でしか変えられないという。この七割のものは、実に祖先の因縁が関係しているという。例えば、悪いことをやっても差ほど何ともないのは先祖の功徳のせいであり、また子孫が幾ら善行を積んだり、努力して頑張っても上手くいかないのは、先祖の悪業が祟っているというものだと言う。それ故にこそ、先祖の霊に感謝し慰謝し供養するということが大切となってくるものだ。

(2)国家にも国運が

 ところで、国家社会の運命にも、国運として同様なことが言えるであろうと思われる。日本が明治維新を巧く切り抜けて日清、日露の戦争に大勝し、世界の大国に仲間入りしていき、第一次世界大戦にも巻き込まれずに巧く対処し、その後に太平洋戦争で大敗を喫し、国家存亡の危機に遭遇し、そして戦後は世界が仰天するように驚異的な経済成長をしていき、そして現在では一九九〇年頃から失われた一〇年と言われるほど、次第に衰滅の一途を辿っているのも、実に善運、悪運が作用する運命的なものもであると言えるであろうか。思うに、明治維新を好運にも乗りきって日清、日露の戦争にも勝利し、第一次世界大戦までは、実に、日本における偉大なる弘法大師の背後霊として、守護していた善魔の神仏が、日本の運命を守ってくれたものと思われる。

 それ以後は、そうした神仏が天上界に昇天していき、最早この日本には存在することなく奈落の底に転げ落ちていったものと思われる。また、太平洋戦争後の混乱期において、亡国の運命に左右されながらも、国家分裂や植民地化の危機も脱して、辛うじて国体を守ったのも、生命をも投げ捨ててかかった天皇自身を中心として、その御心に惹かれた全国民の一致団結した心によるもので、そこにこそ善魔が協力していったものであろうと思われる。

 こうした国家的な運気には、元号も大いに関係しているとも言えるであろう。丁度、個人でも名前が運気にもある程度関係しているようにである。昭和という元号は、明治もそうだが、実に激動を乗り切るに相応しい元号であったと言えるであろう。いずれも外国の支配や侵略に晒されて国家消滅の危機にあったと言える時代でもあったが、無事に切り抜けて来られたのは必死の国民の努力もあったが、陰では、こうした元号による影響も大きく国民の意識に作用していたと言えるであろう。

 陰で作用したのは俗に神といわれる魔であろうが、善魔か悪魔かは、当時の人々の意識の善悪によるものである。そして、大東亜戦後の急激な日本の経済成長は、今度は人々のあくなき物質的欲望や打算的願望の下に悪魔が強烈に作用し、悪運として急上昇していったものであろうと推察される。善とか悪は、心や意識の善悪に呼応してどちらにも簡単に転換していくものである。

 そしてここに来て、とうとう国民の増長した慢心、我欲心により何時しか悪運が尽きて、今や天の裁きを受けるように急激に後退しつつあると言えるであろう。実に失われた一五年とも言われるが、真の神仏に対する反逆、反発、反抗がもたらした天罰とも言えるものと思われる。その結果は次第に権力の衰滅、弱体化を招き、また権威は失墜し、崩壊していき、悪事や既得権益が暴露されて解体され、国民が知らずの内に日本の変革や改革が前進して行くものと思われる。

 そして、残念ながら、歴史的大激動を乗り切った明治や昭和の元号に比べて、平成という元号は、来るべき大変動を切り抜けて行くには余りにも弱い波動を感じざるを得ない。平成なる元号は、時代感覚のない単なる漢学者が過去の文献の中から幾つか選択したものを、一政治家が同様に何も考えずに単に言葉の語呂が良いというだけの思いつきで最終決定していったものであろうと憂慮される。

 今次の世界的大波乱を乗り切るには、薄っぺらになる、ぺっしゃんこに成る、へなりなどの語感に現れるように、実に運気の弱い元号である。それに加えて、国民性も時代的な危機意識にも大きく欠如し、それこそ、生死を賭けてまで国難を切り開いていこうとする気概にも大きく欠乏しており、先述の根気もないところの神頼み的な浮かれきった、過去最低の国民性になってしまったところに、亡国の運命が差し迫っていると言っても過言ではないであろう。

 過去の幾多の国難も無事に切り抜けてきたからといっても、当時に於いては、その危機感の背後には、国民全体に危機意識の高揚と共に、生死を賭けた必死の戦いがあったのである。よく現在の国難を幕末や太平洋戦争後の国難に例える向きもあるが、最大の相違点は、実に現在の国民に危機感や国を憂いる心意気や気概が殆ど存在していないということであろうか。

 それほど余りにも、戦後の各種政策や各種宗教、教育等のあらゆる面で、国民性を経済至上主義、物質万能主義、現世御利益追求、個人主義、利己主義等に追いやってきており、歴史的にも最悪な国民性に堕落してしまったと言えるであろう。世界的な大混乱の後に、日本国民が上手く立ち直れるか否かは、実に国民性の大変革にかかっており、戦後の立ち直りに見られたように、国民意識が一つになった新たな総決起の精神が必要になって来たと言えるであろう。勿論、確固とした目標や展望が大切なのは言うまでもないだろう。
 

病気とは(ガンは心の誤りが原因)

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月30日(金)23時37分10秒
   病気とは文字の如く「気の病」であり、自分の心の偏りからもたらされたものであろう。従って、病気とは自分の心や生活を正していくことによって自ら治すものであろう。医者や薬で治すのは「病」であり、気乃至気持ちの病である「病気」は自分の心を正して、生活習慣全体を正しくして自分で治すものであろう。病が治っても、自らの気が自らによって正されなければ、何度も再発していくものであろう。

 多くの病気は、実に生活習慣における自らの心の偏りから来るものであり、生活習慣病というものであろう。勿論、他から移される感染症や毒物によるものまでも、全て心の原因にするつもりはないが、それでも心の在り方によっては、大した害が及ばないこともあり得るのである。これを個人差と称しているが、この個人差こそ、各自の心の在り方における相違ではないだろうか。

 よく細菌を殺す作用として白血球が指摘されるが、この白血球にしても心の働き如何によってその数が増減するのであり、各人の個人差とは正しく心の在り方における差と言っても過言ではない。極端なことを言えば、心の在り方によっては、たとえ、知らずの内に毒物を体内に混入させても排出されてしまうこともあり、逆に、偏った心や気にする心であっては、たとえ何ともないものでも毒物に変化することもあろうと思われる。同じように食生活していても、健康に関して栄養となったり、毒物となったりするような個人差が生じるのは、正に心の差異と思われる。

 ところで、同じような病気や事故でも、保険に入っていたり、他人から保険の支払いを受けるような環境ではなかなか治らないようだ。それは、金銭的保証が得られることにより、安心してしまって自力で治そうとする心や気力が大きく失せて、心は他力になり頼り切ってしまうからであると思われる。何ら保険や保証もないところでは、必死になって頑張ろうとし、そうした自力心が早期の回復を手助けしていくものと思われる。

 そしてよく自然治癒力とか言われるが、これも安らかな心にこそ湧き出てくるものであろう。睡眠中こそは自然治癒力が大きく働くと言われるのも、睡眠中は無意識で安らかな心を知らずの内に涵養しているからと思われる。また、欲望とか見栄とか好き嫌いとかの感情を露骨に発する人間だからこそ病気になるというものである。野生の動物には病気もなければ、ノイローゼ(心魔)もなく、また虫歯もないものだ。

 よく風邪を引くのは身体の冷えからといわれるが、風邪は心の冷えから来るので、心の変化によった温度差が、冷えを感じることになるものと思われる。心に何の変化もなければ冷えは感じないものであろう。馬鹿は風邪を引かないと言うが、周囲のことに無頓着なことを馬鹿と言えば、正に馬鹿の心とは、如何なることでも、何も変化がない心であろうと思われる。心の冷えからと言えば、真夏でもびっくりした場合とかに、ぞくっとした冷えを感じることを思い出せれば、実に、周囲の気温とかに関係なく、つまりは身体の冷えではなくて、心の変化によるものということが理解出来るだろう。

 然からば、病気にならない方法は、心に何も感情的な変化の無いような生活を送ることに尽きるというものだ。つまり、何事にも満足して感謝し、周囲のことに対して、くよくよと囚われず拘らず気にしないことだろう。他人の言葉の毒を飲むこともなく、嫌なことに対して、見ざる、言わざる、聴かざるで生活していくことが大切になってくると言うことだ。安穏なる心にこそ健康が宿ることになるだろう。

 勿論、遺伝子的に受け継いだ病気もあるだろうが、心とは先祖代々受け継がれるものでもある故に、自分だけのせいにも出来ないのは確かである。それでも心の修行と心得て正しくしていくところに、次第に病気も退散していくようになるだろう。

 因みにガンも食べ物の発ガン物質が関係しているというのが通説であるが、ガンこそは心の偏りや誤りから来ると言えよう。むしろ発ガン物質を体内で形成するものは心の働きでは無かろうか。即ち、大自然と調和しない心が原因であり、中庸・中道を欠いた心の在り方が原因のように思われる。勿論、最初から、ガンが発生するような危険な物質を体内に投与されるのは論外であろう。

 最近では、米国でも、次第にガンの原因は、心に関係するという指摘が成された論文が登場しているようだ。これは考えてみれば、ほくろ占いの原理と酷似しているものだろう。即ち、よく、ほくろ占いでも、ほくろの場所によって性格を指摘することが行われているが、逆に言えば、性格によって、つまり心によってほくろの場所や色や形等が解ると言うことこそ、正しく、ほくろと性格や心との相関関係を示唆しているとも言えよう。ガンとはある意味では悪性のほくろも言えるからだ。

 ところで、単純に心とは言っても、心の在り方は実に千差万別である。食べ物を残すと言うことも、健康に注意しているというよりも、大自然の恵みに対して感謝していない粗末な心を形成していると言えるし、打算や利得、売名等に絡んだ心は、なかなか容易には外部からも自らも如何に偏った心かどうかと言うことが解らないものだ。即ち、狡い心は絶えず変化していく故に、容易には誤った心、偏った心ということから来る悪い結果が出てこないものだ。それで安心したり、人格者とか健康的だと錯覚していき易いものであろう。

 特に、生活習慣病とは簡単にいっても、生活における心の何処に偏りや誤りがあるのかは容易には解らないものである。例えば、共稼ぎの心には、家庭を粗末にする心や虚栄の心がちらついているし、人前でする善行には売名行為の心が見え隠れしているし、また、「利用」と「活用」においても、両者の心は天地の差異があるとも言えよう。「野生」と「野蛮」の心の違いについても、野蛮な人間、野生の動物等で表現されやすいが、その両者の心は天地の相異があるのであるが、多くの人は大してその差異が解っていないものと思われる。

 また、最近は太陽風呂でお湯を温めて入浴する家庭が多いが、こうした行為を続けていれば、五年ほどで難病、奇病になっていくものと思われる。太陽の光熱で暖めたお湯が、微妙に身体に影響を与えることは、未だ科学的にも解明されていないが、燃料の性質が水の成分や効用に大きく影響を及ぼすものと思われる。もっとも、薪で湧かしたお湯が一番健康的と言えようか。酒風呂も牛乳風呂も健康的だが、要は経済性との絡みである故に、普通の人ならば、大金を叩いてまでも、毎日のようには用いることは不可能であろう。要は、健康を取るか経済性を取るかの違いであるから、太陽風呂を選択し利用していくのも各人の自由な選択の問題であろう。

 実に太陽の利用か活用かで、その心に大きな違いがあろうと思われる。即ち、太陽の「活用」は、感謝の気持ちの現れであるが、太陽の「利用」は、打算的利欲的で天罰が下るものと思われる。何が活用で、何が利用なのかは、正に心の問題であるが、太陽風呂を利用するのは、実に太陽の活用ではなくて、太陽の利用になるものであろう。太陽の活用とは、農業などで太陽の恵みを受けることであろう。

 例えば、感謝の念を現し合唱の対象であるべき仏壇を、部屋の家具として位置付ける行為は、仏壇を家具として活用するとも言えるものであるが、高いところの物を取るために、仏壇を踏み台にすることは、踏み台として利用すると言うことに他ならないものだ。

 かくも、心の在り方を巡って、活用と利用では、容易に判別が付き難いものであるのは確かだ。人材登用においても、人を利用するのか、活用するのかの相違を考えても理解できるというものだ。往々にして、活用の場合には感謝の気持ちが伴っていくのに対し、利用は単なる打算で利欲的行為であることも、相違を考える上で参考になるだろう。
 

健康とは 

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月30日(金)23時36分1秒
   一部の専門家をはじめ、多くの国民にとって健康なる概念において重大なる錯誤があるのではないだろうか。健康とは文字の如く、健(すこ)やかさと康(やす)らかさであり、外見よりも内面的なもの、即ち、精神的なもの、心の問題であろうと思われる。ところが多くの人は、健康になるために食べ物に拘ったり、外見上の筋肉を増強させるためにスポーツなどに囚われている嫌いがあるようだ。しかしながら、健康とは、そんな外見的・表面的なものとは異なると言うことだろう。

 例えば、ここに頑丈な机があるとして、思い切り叩いても壊れないからといって、この机が健康とは言わないだろう。これは単なる丈夫、頑丈というものである。つまり健康とは頑丈や丈夫と異なる概念であるのに、殆どが外見上の姿形に囚われて、内面的な心の問題であることを忘却している嫌いが見受けられるのである。即ち、筋骨隆々とした肉体、頑丈・丈夫な身体をもって健康的といっているのが世間の常識となっているようだ。また、世間で言われるような標準体重なる尺度も、単なる外見的な美しさの指標程度でしかなく、痩せているから健康とか、太っているから不健康とか言うものではないし、健康とは全く無縁のものである。

 また、何を食べたら健康になるというのも、必ずしも全て正解ではない。ある程度は、健康に食べ物も関係することは否定はしないが、精々一割ほどであろうと思われるのであり、残りの九割ほどの確率で心が関係するものと思われる。従って、何事にも不平・不満の心を排して、大自然の恵みの食べ物を始め、境遇等のあらゆるものに対しても心より感謝して、「吾、唯、足るを知る」の心にて、極端に偏らない中庸・中道の心にて、活達に生活することこそ、健康と活躍に直結するものだろうと思われる。

 そして人間は病気さえしなければ、皆九〇歳ぐらいは生きることが出来るのであろう。七〇、八〇で死ぬのは病気であり、老化老病と言うものであり、老衰というものではないように思われる。換言すれば、老衰では九〇歳ぐらいまでは死亡しないものであろう。この病気も、別に検討するように、気の病であり、心の問題に他ならないものであろうと思われる。

 現代は余りにも健康に関心を抱いていることが多いが、殆どは食べ物や頑丈さに囚われているようだが、健康とは、病気もそうだが、実に心の問題であると言うことだ。食べ物にしても、何を食べたから健康になるというものではなく、何をどういう心で食べたからという次元で考えていくべきだろう。食べるときの心の在り方が、大きく健康に関係しているということだ。現在は、科学的にも、心の持ち方、在り方で、消化液や酵素の働きに大いに関係しているということが証明されているようだ。

 何を食べたらガンになるとかの議論が余りにも多すぎるが、とんでもない見当違いの話であろうと思われる。そうだとしたら何も食べる物が無くなってしまうだろう。ガンもその原因は心であると思われる。心の偏りや誤りが、凝りとしてのガンを発生させるものと思われる。

 よく、あれほどアルカリ食品や健康食品を食べていたのにどうしてガンになったのかと悔やむ人もいるが、これなどガンの原因が心の問題であることが解っていないのであろう。くよくよ、イライラなどのストレスも、心の舵取りを誤ったものとしてガンを発生させる原因になりやすいものと思われる。

 健康とは実に心乃至精神の問題である。まずは心を清浄にすることが、健康への秘訣であろうと思われる。この清浄な心とは、実に血液を清浄にすること、即ち、「清血」にすることに尽きると言えよう。逆に言えば、「清血」とは清浄な心に他ならず、決して石鹸や薬では得られないものであり、実に、何物にも囚われない清浄な心、簡単に言えば、丸く大きく豊かで暖かい心の形成によってこそ得られるものであろう。即ち、石鹸では身体を「清潔」にすることは出来ても、心を清浄にし、血液を「清血」にすることはできないものであろう。

 ところで、この心の働きは実に一念三千の世界であり、実に微妙な世界であり、何が正しい心かは容易には解らないものだし、神官や僧侶、道徳や倫理などの専門家ですら、よく理解できていないように思われる。例えば、同じ野菜を好んで食べても、心の在り方によっては、菜食主義者と菜食愛好者の二通りがあると思われる。菜食主義者のように主義に囚われるようになってはいけないと思われる。即ち、人が真心を込めて感謝の念を表してくれる物に対し、自分は野菜しか食べないと言う菜食主義なる頑固な主義に囚われて拒絶するのが「菜食主義者」である。

 また、自らは野菜を好んで食べるが、人が真心を込めてくれる物は、肉であろうが甘いものであろうが、相手の真心を素直に受け入れて何でも感謝して食べるのは、「菜食愛好者」と言うものであろう。両者の心は天と地ほどの開きがあると言えよう。往々にして、あれほど野菜を中心に食べていたのに、どうしてガンなどになったのかと後悔する方は、案外、菜食主義に囚われて、頑固な心を知らずの内に形成していたのではないかと思わざるを得ない。

 猫が骨を食べても、喉に引っ掛からないないのも、実に美味しく喜んで食べるからであろうと思われる。人間は余りも、栄養とか、味とか、引っ掛かるのではないかという先入観などに囚われ過ぎると言えよう。その囚われる心が、逆に骨が引っ掛かりやすくしているとも言えるのだ。囚われない心にこそ、自然と調和した健やかさと康らかさがあり、健康に直結する健全な消化液や酵素の働きがあるものと思われる。

 縄文時代は、人間でも約五千種ほどの酵素があって、草でも木の実でも分解し消化していたようだが、長年の間に、食生活の変化と共に、酵素が次第に使われなくなっていったものもあり、今では、草や木の実をそのまま食べても、消化不良を起こす場合が多いが、控訴は使わなければどんどん退化し消滅していくようだ。現代の人間は、本来備わった酵素なども、カロリーや美食、便利などに囚われて、過度に追い求める余りに、次第に退化し、その反動として、抵抗力や免疫力が低下してきていると言っても過言ではないように思われる。

 ところで、昔からよく、「健全な精神は健全な身体に宿る」と言うが、これなどはむしろ逆であろうと思われる。正しくは、「健全な身体は健全な精神、心に宿る」と言うべきであろう。健全で健康な身体は、健康な心や精神より生まれるものであり、まずは健全な心を形成することが、健全な身体に直結する第一義のはずであろうと思われる。

 よくスポーツ選手が短命に終わったり、外見が頑丈な人が急死したりするのも、医学界ではその因果関係が良く解っていないらしいが、健康とは何であるのかを巡って正しい理念が理解されていないものと懸念されるものだ。スポーツと健康とは、余り直接の関係はないと言えよう。偶々、スポーツをやって、ストレスに満ちた心身が解放されて、その結果として、健康な心が形成されていくことであり、逆に、過度に無理して実践するスポーツでは、全く健康とは逆効果であるのは明らかだ。それ故に、スポーツもやり方次第では、健康にもなったり、逆に短命にもなったりするものだろう。

 なお、身体や精神を過度に酷使した人の死は突然にやって来るものであり、差ほど酷使していない人の死は緩慢に到来するものであるようだ。酷使して行く場合には、知らずの内に無理が蓄積され、突然の死を迎えるようにしているとも言えよう。要は、何処までも健康とは、心の在り方、舵取りが大きく影響を及ぼすものであると言うことだろう。

 スポーツと同様に、座禅やヨガもや太極拳も健康になれるとかで、ブームを呼んでいるが、これも健康の概念を大きくはき違えていると言えよう。座禅やヨガなどの不動の身体を作ることではなくて、まや太極拳などの緩慢な身体の動きを形成することではなく、不動の心、また緩慢な心を涵養することが大切なのである。何事に対しても、喜怒哀楽などの感情の過度の起伏を顕わにすることもなく、極端に流れることもなく、不動や緩慢な中庸・中道の心を形成することこそ、健康の秘訣と言うものであろう。

 よく考えて見れば、極めて自然で当然なことでもある。即ち、座禅やヨガの姿勢を上手くできないで、支障を来す身体障害者の方は不健康なのだろうか。そのようなアクロバット的・奇形的に、身体に捩らせたり捻らせること自体が健康的ではないことは明らかであろう。それは単なる柔軟な身体と言うことであり、健康な心や身体と言うことではないはずだ。

 なお、健康には心が大きく関係しているとは言うものの、必ずしも心だけの問題でもない。例えば、最近の健康ブームの中で、温泉が健康に良いからと大いに宣伝されているが、この温泉のお湯に至っては、何処も大変熱く温度が設定されているのが殆どだ。熱ければ、刺激も強くて、健康に良いとでも勘違いしているのではないだろうか。しかしながら、熱い温度のお湯では、温泉の薬用成分が身体に強く浸透して大変健康には良くないことが解っていないようだ。これは専門家の医者の方々でも、余り解っていないように思われる。薬用効果も強すぎたりすれば逆効果である。

 温泉の温度に限らず、薬の過剰使用もマイナスに働くことがあるということだろう。むしろ、温泉のお湯に関しては、ぬるま湯にゆっくりと浸かってこそ健康に良いと言えるものだ。老人は熱いお湯を好むと言うが、老人であっても、熱いお湯は、瞬時に疲労が取れて開放感が走り、一見して健康になったような錯覚に陥るが、極めて身体に強く薬用成分が作用して健康に悪影響を及ぼすものと思われる。

 お湯と言えば、殆どの専門家が、痔の治療に対して、暖めろと指導しているようだが、むしろ、暖めた場合には、その時だけが暖まるというものの、後で冷えやすいのである。むしろ、冷たい水に患部を浸した方が、後で血行が良くなるのである。我々は経験上も、寒い時に、温かいお湯で洗顔するよりも、冷たい水の方が、血色が良くなることを知っており、それと同じであろう。お湯はその時だけが暖かく感じるものの、後で冷えてくるものである。

 また、健康には、心以外にも、日常生活や食生活に氾濫する化学物質なども、健康に有害な物質として大きく作用することが多いのは明らかだ。それでも真正で清浄で無意識の心であれば、気にしたり囚われた心である場合よりも、被害は少ないのではないかと思われる。よく腐敗したものでも、気にする心で食べると過度に嘔吐を催すが、気にしない心で、ただ感謝の気持ちや食べ物を大切にする心で食べる場合は、不思議と臭いもせず、食中りに際しても被害が少ないこともあり得るものだ。現に、当方も何度もそうした事態に遭遇していることで経験上、納得しているものだ。

 こうしてみると、健康なる生活を送るに際して、世間で常識のように言われているような様々な事象や事例において、健康に対する概念や理解、実践の多くが、実に誤解と偏見、誤謬に満ちたものが多いことが解るというものだ。
 

日本語の「配慮表現」を指摘するが・・・

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月26日(月)21時48分16秒
編集済
   在日中国人の彭飛氏が書いた本に、『日本語の「配慮表現」に関する研究』(和泉書院)がある。日本語の配慮表現の行き詰まりや問題点を指摘するが、必ずしも、だからどうなんだという解決策には何ら言及していないところが問題であり限界だ。

『日本語の「配慮表現」に関する研究』(和泉書院)

 あとがき

 本論文で目指した「配慮表現」「(気配り表現)の考察は、第1部「序論」で論じたように対人関係において働く「配慮」及び話し手自身の品格保持の心理がいかに言語的に表現されるかの考察である。本論文はその「配慮表現」を現代日本語の重要な特色の一つとする立場から、その具体的なさまざまな様相や特徴的形式を整理し、記述して体系づけようと試みたものである。

 「配慮表現」は目上と目下に差をつけない。目下にも気を遣い、相手(目上や目下を含む)に迷惑をかけないように、相手が傷つかないようにと相手の心情を察し、配慮して、その思いを言語で表現することを指す。相手に対する優しさ・思いやり・心づかいを含む言語表現であり、他人のために自分の心を労する、他人に利益を与える、他人に喜んでもらうという表現も含まれる。自己抑制、協調性など「和」の人間関係を前提とするものである。当然のことながら、傍若無人な、周囲をはばからぬ、気のむくままな(言語)行動は排除する。冷淡、気難しい、そつけない、といった態度や姿勢は「配慮」とは反対のものである。

 言語表現には社会的環境が反映される。本論文は、筆者の長い日本での言語生活(体験)において芽生えた問題意識を基に発展させた研究課題であり、日本語を母国語としない者の視点でもって、日本語の「配慮表現」を、語渠、文法及び言語思考形態、言語行動様式、価値観などの面から探究しようとしたものである。筆者は、繊細な心づかいのこもった「配慮表現」は日本語のよさを代表する一つであると考える。情報や自分の意志や感情などをいかに柔らかく相手に伝達するかは日本人の人間関係の維持にかかわる重大な問題なのである。本論文は「配慮表現」の研究の重要性を訴え、この「配慮表現」が日本人の対人関係意識の把握にかかわる重要な研究であることを強調する。更には「配慮表現」に関連する日本語における「敬語」「待遇表現」の把握についても見直しを試みた。

 「配慮表現」の呈する様相(四領域)を四部に分けて検討した。調査した多くの例はまだ一部に過ぎない。また、相手と発話行為を遂行する場合の「配慮」(気配り)は音声の高低、強弱、話の緩急、抑揚、間の取り方、表情などにも見られる。日本語のコミュニケーションで尊重されるのは多弁よりも、少なめに語ることである。「沈黙(言わぬが花)」「言わず語らず(以心伝心)」は場合によっては「配慮」の一つになる。また言語形式だけではなく、話題の選択、話題の転換の仕方など、言語表現以外の分野にも反映されている。

 勿論、他の言語には人間関係における「配慮」(気配り)の表現がないとか、他人に気配りをしていないとかいうことを意味するものではない。「配慮表現」は表現の仕方が相違するだけで、各言語に見られる普遍的な現象であり、決して日本語特有のものではないのであるが、また一面、日本語には他の言語には見られない独自な「配慮表現」形式が認められるという事実を見逃すわけにはいかない。本論文は日本語の「配慮表現」の独自性(特徴)ならびに言語と文化のかかわり方を中心に考察した。

 日本語を深く理解するには、これら「配慮表現」を成立させている人間関係の理解や、その場の人間の心理の研究も必要である。緩和(暖味)、省略など多くの社会的関係に制約された言語現象は一見したところ、論理性や明断性に欠けるように見える。しかし、その論理性は複雑ではあっても、決して論理性を持たないわけではない。その複雑な論理を解明することが日本語の深い理解につながるのである。

 「配慮表現」の研究課題は極めて現実的、かつ切実なテーマでもある。日本語は「混沌と暖味」「閉ざされた言語」「ファジーな言語」「丸め指向、縮め指向」「焦点ばかし」「隠蔽主義」「腹芸」「玉虫色」「あやふや、不鮮明な言語」「説得力や自己主張の欠如」「暖味さを持つ言語が国益を損なう」「本当の顔が見えない日本語」「秘密の暗号コードに近い」「世界に通用しにくい言語」などと酷評されることが多く、このように批判される言語は世界でも珍しい。が、見逃されているのはプラス面の「配慮表現」、「配慮表現」を使う人の心映えの美しさである。本論文は特にプラスに働く「配慮表現」を中心にその特徴を論じたものである。

 「配慮表現」は日本語のよさでありながら、一面やっかいな摩擦を起こすこともあると筆者は思う。口に出さなくても察してほしいという論理は国際舞台では通用しない場合も多い。相手を刺激させないように、相手の心をなごませる「対立回避」のための真意が正しく伝わらない、逆に「対立を生む」場合もある。また「配慮表現」の定型化した表現に縛られると、言葉の創意工夫を凝らす意欲が弱くなり、創造的な言語表現よりも、決まり文句を機械的に繰り返す傾向も見られる。また、「配慮表現」の乱用と使用過剰は次のようなマイナス面をもたらすことも少なくない。

 たとえば、配慮しすぎてノーが言えない、配慮しすぎて遠慮がちになる、相手への不安を取り除き、相手を安心させるための気苦労が逆に自分を不安に陥らせる。また相手を傷つけぬようにと思うあまり(気苦労)、自分が傷つきやすい心配性になってしまう、等々!!。人間の作った配慮表現が逆に人間の思考、行動様式を左右してゆく。プラスに働くと人間関係がよりよい状態を保つことができるが、マイナスに働くと、人間関係をやっかいにすることになる。配慮によってがんじがらめになり、身動きがとれなくなることにもなる。これらはいずれも「これからの配慮表現」「緩和表現と本音」「言葉の意味・表現する技法と自分の気持ちの、相手の心への届き方」「気配りのききすぎる表現の簡素化」の問題として今後、大いに議論すべき点である。私にとっても宿題ともいうべき課題である。日本で「配慮表現」を使わないと、無礼に聞こえ、摩擦を起こしかねない。また一方、使い過ぎると、心を伴っていないと批判される。適時適切に配慮表現を用いることが要求される。

 本論文は言葉という角度から「配慮表現」を中心に考察してきたが、「配慮行為」(品位ある接し方)になると、その持つ領域は更に広くなる相手に分かりやすく説明するのも相手への配慮行為、はっきり返事をして相手を安心させるのも配慮行為、相手を退屈させないようなユニークな表現を用いるのも配慮行為である。相手が傷つかないよう、誤解を与える語・表現を避けるようにするのは配慮行為(調和的な人間関係の維持)だが、すでに鯵着状態になった人間関係の緊張を和らげるために言葉の工夫をするのも配慮行為(調和的な人間関係の修復)であり、相手に誤解されても「寛容的」で感情が高まらないようにするのも配慮行為である。また相手にも十分に話をさせるのも配慮行為である。場合によっては黙って相手の言うことを聞き、一言も言わない(声なき声)のも配慮行為である。

 「配慮表現」の研究課題にこだわってかれこれ二十年。二十年前に来日して以来、日本語の「配慮表現」には随分苦労した。理解するには二十年はかかる。「配慮表現」のよさに気づく前にまず挫折してしまう外国人が少なくない。これからの日本語教育では、こうした「配慮表現」の指導にも力点を置く必要があると思う。

二〇〇四年正月
                     著  者
 

それでも解決策が見えてこないのは???

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月23日(金)22時19分11秒
編集済
   在日中国人の彭飛氏が書いた本に、『知れば知るほど「はてな?」ニッポン』(詳伝社発行 彭飛著)がある。彼は随分と日本人以上に、日本人社会を観察し、国民性や日本語に関する分析をしている。

 正に、当方が指摘する国民性と日本語との関連についても言及している。その中でも、日本語の問題点と国民性の行き詰まりに関する注目すべき論点を紹介する。これからすると、当方の見解も理解出来そうなものだが、殆どの者が解決策に至っては迷走するばかりで、とても、聖心先生のご指摘された「思い切って日本語を捨てる」などとは理解も評価も出来ないというものだ。

『知れば知るほど「はてな?」ニッポン』
詳伝社発行 彭飛著

 日本人の行動様式を左右する「気配り表現」の功罪

 日本語の「気配り表現」は、目上と目下に差をつけない。目下にも気を遣う。つまり、相手に対する敬意、配慮、品位ある接し方などを含む、より広範囲の姿勢である。

 「敬語表現」なら「尊敬語」や「謙譲語」など、特定の言語方式を整えているので、日本語を学ぶ外国人にもまだ習得しやすいが、「気配り表現」は定式化されていないものが多いので、外国人はそのよさに気づく前に、まず挫折してしまう。

 日本の社会では「気配り表現」を使いこなせないと、いわゆる「国内摩擦」を引き起こす。だが、国際交流の舞台で使うと、今度はいわゆる「国際摩擦」を引き起こす。日本人と日本語は今、この二つの摩擦をどうしたら回避できるのか、という難問に直面している。これは日本語の国際化に対応する重要な課題である。

 人々の意識が変化し、世界の中のたくさんの言語と接触する機会も増えたため、日本語の表現は必然的に変わらざるを得なくなっている。そうして初めて、一民族の国語から、国際語としての日本語、地球市民的な発想に基づく日本語に生まれ変わることができる。

 日本語も「共生時代」を迎えようとしているのだ。
 外国人と交流する際に、「気配り表現の特徴」を外国人に紹介する必要もある。分かってもらえたら、その温もりも味わってもらえる。

 一方、「遠回しの表現」や「暖味さを持つ表現」はなるべく避け、明確に話すようにする。「ホンネ志向」で、気配り表現中の「気配りの利きすぎる表現」を簡素化することにより、多くの摩擦は回避できるだろう。

 人間は気配り表現を作った。気配り表現がまた、人間の思考方式、行動様式、習慣を作っている。「気配り」がブラスに働くと、人間関係をよい状態に保つことができるが、マイナスに働くと、人間関係を厄介にすることさえある。「気配り」によって雁字溺めにされ、動けなくなることも実際に多く見られる。

 日本の経済界、政界、教育界、どの分野にもそれは見られる。日本の改革は、まさにここから考え直す必要があるのではないだろうか。

 「気配り」をしすぎると、気疲れしてしまう。心配事が多くなると、体に悪い。日本人に心臓病の患者、神経系統の患者が多いのは、この「気配り」と関係しているのかもしれない。高齢者もそうだが、個人貯金はアジアでトップかもしれないが、未来への不安、憂鍛もアジアでトップかもしれない。精神的な不安は、日本の発展を妨げるものでもある。精神的な強さをつける必要があるのではなかろうか。
 

荒海外洋を航海していく日本丸の行方

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月17日(土)23時23分43秒
   日本語という日本文化の積み荷を満載した日本丸も、波も穏やかな内海や入り江を順風満帆に航行している時は、何ら問題はなかったと言えるでしょう。然るに、現在や今後とも、グローバル化した国際環境の中を、実に荒海の外洋を航海していく際には、日本丸は予期していなかった幾多の障害に揉まれ遭遇していかざるを得ず、下手すれば、難破し漂流し沈没していく危険性もあるというものでしょう。グローバル化とは障壁の撤廃への圧力であり、希少な文化の尊重よりも、淘汰抹消に繋がっていく可能性が高いものです。よって、この日本丸の沈没という非常事態の危機を回避し脱却するためには、日本語という伝統文化の積み荷ですら、思い切って捨て去る時が来るだろうと言うことです。

 難破し漂流している船で、急迫化してきた沈没という厳然たる現実を前にして、日本語という荷物・積み荷をどうするか、思い切って捨てるか、非常事態でこそ判断できるものであり、平和、平時における平常の平凡な思考では、限界があるのが人間の常でありましょう。複雑高度に組み上げて便利な反面、今や、バラバラに散乱する日本語の積み荷を、如何に奇麗で美しく正しく整理整頓をしていれば済む話ではありません。即ち、奇麗で美しく正しい日本語とは、一体如何にあるべきかなどと悠長に堂々巡りをして論議している段階では、もはや限界に達したと言えるでしょう。如何に大切に見える積み荷でも、疾風怒濤の荒波を前に思い切って捨てるかは、日本丸の国家の将来が掛かっているとも言え、実に日本丸の乗員である日本民族全体の命運に大きく関係して来たと言えるでしょう。

 人間誰しも、自分自身の性格や食習慣、生活信条、嗜好品などを、「思い切って捨てよ」なんて言われて、「はい、そうですか」と、素直に納得し同意する者など殆どいないであろうし、それが人間的常識というものでしょう。簡単に理解できる場合があるとすれば、難病や奇病といった非常事態が発生してきた際でこそ可能であり、その折りには、その病気との因果関係を真摯真剣に考えていく必要性や心の余裕が生まれて、耳を傾けるであろうと思います。日本丸の積み荷の日本語にしても同じことが言えることでしょう。平時では、思い切って日本語を捨てるという必然性や因果関係を幾ら説明しても、余程の達観者や先見性、洞察力を有した者でない限り、理解し評価することなど不可能でしょう。

 ところで、某有識者の方が講演会で、九割を占めるナイーブな日本人の国民性を、今や根本的に変革しなければならないと警鐘を鳴らしていました。あまりにも現実を直視できず、また真実を理解することも出来ない幼稚な国民性を嘆いて言われたものです。解決策に際しても、ただ一人一人が目覚めていくことだと言っておられました。思うに、九割の大多数の国民が目覚める前には、優れた指導による以外は、習慣と化した日本語が邪魔しているものです。大多数の国民に向かって、幾ら真実を解いても、「それは貴方の考え過ぎだ。それは無茶な考えだ」などと言って真剣に考えようとしないことが多いのではないかと思います。国民性の背景や原因と、最終的な解決策を如何にするべきかに関しては、大多数の有識者の方は、単なる現状分析だけで終始し、大した提案も思い付かないようです。実にナイーブな国民性の原因こそ、実にナイーブな日本語の使用に他ならないように思います。即ち、温和で情緒的で曖昧模糊の素朴な語感のある、ある意味では無責任で不明瞭で意志薄弱な言語感覚自身であろうかと思います。今や、国民性を形成している伝統文化の日本語自身に焦点を当てて、思いきったメスを入れる時期に来たと言えるでしょう。
 

日本語を巡る様々な見解

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月17日(土)23時13分55秒
   『「わがまま」のすすめ』(堺屋太一著)という本を読むと、そこに著者の日本語に関するコメントがありました。ここにおいて、著者は作家だけあって、なかなか上手く日本語の歴史的経緯や長所や欠点、そして現状の問題点から将来展望などを、実に広範に亘って客観的に、そして真実に迫って、分析し抽出し評価しているもので、当方にとっても大いに参考になるものでした。言論界の最先端をいく有識者が、日本語に関して如何に考えているかを知るだけでも、大変有意義なものでした。

 ここで、著者は最後に、現在の日本語に関する問題として、日本語の乱れを指摘しますが、残念ながら、その解決策としては、単に「明確な意味のある美しい日本語を」と言うだけで、乱れきった現在の日本語の解決策を具体的に提示しているものではありません。やはり、著名な作家ですら、現在の日本語を取り巻く種々の問題に対し、「明確に意味のある具体的解決策」を提示出来ていないように思います。どうしても、普通一般の作家や評論家と同じく、新しい大胆な解決策を提示し切れていないことに限界を感じます。

 もっともあまりにも大胆すぎて、何を効果的に解決するのかが明快でないものでも困ります。例えば、某氏は漢字を無くして平仮名に、別の某氏は、漢字を廃止してローマ字表記にせよと主張しており、他にも多くの有識者は、西洋外来語を使用禁止にしてカタカナを排除せよと言っておりますが、何れも本来の日本語から大きく脱線してきた日本語の欠陥を認識していることでは共通しているものですが、真の解決策には至ってはおらず、逆に曖昧性を残存させ増幅させて、歴史を逆向きに回転させていくものでしかありません。

 多くの有識者は、「美しい日本語」「正しい日本語」などと曖昧にしているものですが、これこそ日本語の曖昧模糊とした情緒的な欠陥であるというものでしょう。それでも一方的な日本語の礼讃ではなく、日本語の歴史的役割を多大に評価しながらも、現在の日本語に対して危機を痛感し、警鐘を鳴らしている点では大いに評価出来るものでしょう。

 ところで、最近は日本語を巡る話題や出版が相次いでおり、大々的な議論に発展していく予感がするものです。最近出版された『かなり気がかりな日本語』の著者も、混乱する日本語の現状に対する危機に対して、敬語の使い方の乱れなどを指摘し、日本語を正しく使い直せと警鐘を鳴らしているものですが、特に問題点の現状分析の指摘に終始し、試行錯誤しているようで、大して改革的思考は見当たらないように思います。

 特別に「正しい日本語、美しい日本語とは何か」の項目を掲げて記載しておりますが、別に解答を示しているものでもないようです。敬語の乱れや日本語の複雑な欠陥などを始め、日本語を巡る様々な問題点を列挙しており、知識や分析の鋭さには敬意を表するものですが、単なる現状分析に終わっているところが、多くの有識者と同様に限界であろうと思います。むしろ専門家故に、過去の経緯や現状分析には長けていますが、問題点の抽出から思い切った解決策を提示するには、かなりの洞察力や創造的才能が要求されるものと思います。

 今や、日本語に関する問題点が多くの有識者によって次第に明らかになりつつありますが、殆ど、大した展望を描き切っていないように思います。これは日本語と国民性との関係には、さほど思いが至っていないか、あるいは、日本語や日本人の国民性の礼賛に終始し、一体何処が悪いのかと怪訝に思っていることが極めて多いようです。謙虚に自己反省的に国民性の変革を成し遂げていくからには、自己に対する厳しい客観的な分析も必要になるものでしょう。やはり、日本語と国民性の因果関係に至る分析や解決策などは、かなりの深い洞察、先見性、創造性がないと、心底から確信を持って理解できないし、実に、壮大な歴史的課題ではないでしょうか。個人の事例に例えても、長い間に食生活の誤り偏りを指摘されて、その結果の病根を摘出するためには、「思い切って習慣を根本的に改訂することだ」と指摘されても、「はい、そうですか」と素直に理解納得する者など皆無でしょう。どうしようもない破局の寸前までいって初めて、虚心坦懐になって、真剣に考えるのが常でありましょう。
 

言語と国民性との関連に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月 7日(水)00時14分1秒
   実に一三〇〇年前以来、即ち、大和律令国家を経て以来、今日に至るまでに形成されてきた日本人の国民性は、基本的にはそれほど変化していないのではないかと思われます。それでも、今ほど、日本人の国民性の欠陥が大きく露呈された時はなく、今やその変革の必要性を提示する有識者が多いのですが、その国民性を形成してきた原因や背景が何であるのか、またその国民性の変革を如何になし得るのかの、明解な回答は誰にも解っていないようです。単に法制度を変革したり、抽象的な意識変革をすれば、それだけで済むというものではないでしょう。その法制度の改訂も大変重要ではありますが、その解釈や運用には、大きく国民性が関係してくるからに他ならず、その国民性を決定する根源的なものにまで、さらに進んで解明していく必要があるようです。

 ところで、日本人の国民性の長所としては、情緒的で曖昧模糊とした、穏和で寛容・寛大な豊かな感性を育んできましたが、逆にこれは、時には巧妙・狡猾に転化し、換骨奪胎、二枚舌、すり替え、はぐらかし、先送り、無責任、優柔不断、現実や真実の直視能力の欠如などを生み出してきたと言えるでしょう。この国民性の原因や背景こそ、豊かな自然環境や食べ物、また神道や仏道、儒教などの信仰観や、幾多の法制度も関係しますが、特に、それらが社会や国民心理を規定してきて、人々の使用する日本語に反映されてきたものであろうと思います。即ち、日本語と国民性との相関関係を考える時、日本独特の国民性は、特有の日本語によるという因果関係を強く指摘するものであります。

 よく島国根性とか、役人根性とも揶揄される日本人の国民性ですが、これは何も役人の世界だけではなく、国民全体に共通するものであろうと思います。この役人根性こそ、多くの方から指摘されているように、閉鎖的で、互いにもたれ合い、たかり合い、なれ合うなど、一般常識と乖離した思考構造や行動パターンであり、先ほどの巧妙・狡猾、換骨奪胎、二枚舌、すり替え、はぐらかし、先送り、無責任、無節操、優柔不断、現実や真実の直視能力の欠如などの殆どが当てはまるように思います。日本社会には役人以上に役人的社会が氾濫しており、実に日本社会全体が役人的社会であり、日本人の国民性こそが役人根性を有しており、誰が役人になっても代わりはないものと思います。そのまま世界と対峙して、役人社会を日本人社会としても通用するように思います。

 こうした国民の心理や性格を、歴史的にも育成してきた有力な原因や背景こそ、実に日本語という特有の言語の構造にあり、また特別な使用方法にあり、それによって、日本人の意識や心理が、良かれ悪しかれ、様々に醸成されてきたものと思います。日本語の性質や使用の特質と、国民性との関連の詳細は、あまり抽象的に言っても、実感が湧かずに理解できないものでありましょうから、後ほど身近に存在する事例をあげて紹介しますが、ここでは簡単に、両者の相関関係の指摘に留めておきましょう。

 例えば、特に、日本語の曖昧模糊とした多様な情緒性や複雑性は、日本人の曖昧模糊とした情緒的で、他方では柔軟で寛容な複雑な心理や感性の国民性を形成してきたように思います。また話し言葉よりも書き言葉優先の、視覚に訴える日本語の性質が、謙虚で穏和な心理風景を醸成してきたものですが、他方では、意思伝達能力に欠如して、議論下手で自己主張しない、自己主張させないで正面切った批判を封じる個性排除の集団主義へと、さらに「出る杭は打たれる」や「沈黙は金」などの内向き、縮みの国民性形成に何らかの関係を有してきたものと思います。これは猜疑心旺盛で近視眼的な日本人を形成し、さらに嫉妬や妬みの充満する葛藤社会にも反映されてきたように思います。

 なお、世界中から様々な言語が流入してきて形成された多言語複合社会の中で、特に平仮名と漢語による二重言語世界が、書き言葉と話し言葉の乖離から、建前と本音の乖離を生み出し、両極端に揺れる、多様で複雑な心理の国民性にも関係しているように思います。また、一つのことを表すのに多様で豊富な語彙の氾濫は、複雑な情緒性の豊かな心理や感性を生産すると同時に、他方では、無責任で、はぐらかしの狡猾な国民性を生み出してきたように思います。

 また複雑な敬語の発達は、形式や外見に囚われ拘って、複雑な人間関係を重視し気にする心理を生産したものと思います。欧米世界とは相違した日本語独特の言い回しは、絶対的なものを嫌悪して全てを相対化する心理を生み出し、それが皮肉にも、崇高な理念には理解や評価が不能な国民性を生産し、至っては、問題解決先送りや不能の国民性をもたらし、独特の創造性よりも、改良性や模倣性に長けた才能を育んできたものと思います。今日、日本の常識は世界の非常識とも言われる背景も、実に特異な日本語による、日本特有の思考方法や行動様式が関係しているように思います。

 なお、日本人には、他方で大胆不敵な大和魂とも言われる正義感があり、時折、時代の節目に当たっては、勇猛果敢で積極的で、破天荒な発想と行動を伴うこともあり、実に拡大志向の国民性の面もあり、また慈愛に満ちた柔軟で寛大・寛容な精神もあるのも事実であります。これらは自然と調和した本来の大和言葉の日本語という側面や、厳格な漢語の世界などの面も関係しているとは言え、むしろ、神聖で清浄な心魂、安穏で広大な心魂の形成を目指す、神道や仏道などの信仰観が濃厚に反映しているものと思います。
 

お久しぶりです

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 6月 6日(火)21時39分9秒
    拝復
 久方ぶりのお手紙に、懐かしきお姿を思い浮かべながら拝見いたしました。正に先生ご指摘のように、現在の日本は、戦後以来、米国に占領されてきており、これの解消なくしては真の独立国家には成り得ず、国民精神も真の自立したものに涵養されることもないと思います。それに、自主、自立、自尊の独立国家と言っても、自主憲法の制定や教育基本法の改定、健全な家庭の在り方を構築し、倫理、道徳、礼儀などを根本から正す修身教育の復活などは当然ながら、これだけでも真の自立した国家には有り得ないのは明らかでしょう。即ち、資源・エネルギー・食糧的にも自立していなければ、外国資本に牛耳られて、その支配下に収まって、結果的には、経済的に屈従、隷従の管理・支配された国家社会になり果て、これでは中途半端に終わるのは必定でしょう。

 先の本でも、日本が資源・エネルギー的に自立し、世界有数の資源・エネルギー国に大転換する方策を提示しましたが、日本人特有の無関心・無感動・無責任な国民性から、殆ど誰も関心を示さずに将来が真っ暗な中で、全部読んで大変感銘された方も現れ、大変なご評価に対し大いに励まされて、微かで仄かな光明を見い出した感じです。今後の激動の時代の進展とともに、そして混迷し混乱する情勢の展開と共に、試行錯誤の果てに、多くの国民に、次第に現実的な関心や理解、評価に繋がっていくことを期待するものです。

 今や、国内外の情勢は風雲急を告げるほど、歴史的大激動を迎えつつあるように思います。特に世界の軍事、政治、経済の大覇権国の米国は、膨大な双子の赤字に陥っており、イラク戦争の膠着状態を見ても解るように、米国崩壊、ドル崩壊の危機に遭遇する歴史的大転換点に突入しているように思います。他方で、欧州も、一時のEUへの関心も薄れてきており、東方拡大を巡って暗澹たる情勢であり、経済的不振から大量の失業問題を抱え、移民の暴動発生、それに欧州憲法のオランダやフランスでの否決、更には、資源・エネルギーを巡って、ロシアや米国との軋轢・確執を生み出しており、将来展望に暗雲が立ち込めているように思います。ロシアも、周辺諸国が民主化運動の嵐で西洋化している急激な状況に対して危機感が高まっており、民族的な対立にも拍車を掛け、大激動に巻き込まれようとしております。中国も国内的にも幾多の難問を抱え、地域や所得などで格差が拡大し、これらが大動乱への引き金となる可能性が急迫化しているようです。今後の世界情勢の大混乱の背景には、壮絶な資源・エネルギー問題、経済問題が横たわっております。

 今回の日本における改革には、戦国時代や幕末時、そして大東亜戦争に突入した直前の時代環境と酷似しているものですが、現在の危機は、実に目に見えない危機であるからこそ、また明確な解決策が見つからないからこそ、そして国民精神が内部から溶解している状況であるからこそ、正に、戦国、幕末、大東亜戦争時の大混乱を全部合わせたほどの壮大な歴史的な危機になろうかと思います。

 そして、この危機の突破乃至回避には、明確な将来展望や解決策の提示は当然ながら、それを理解し評価し協力する国民性の変革と、そしてそれを実行する国内外の大崩壊の大激動の到来が必至というものでしょう。即ち、ジャングルの中から新しい木の芽が吹き出すためには、大木が倒壊して、そこに太陽が燦々と差し込み、風通しが良くなることが必須と言えるでしょう。新しい改革の気運が生まれて広範に拡大していくためには、同じように、国内外の現体制の崩壊乃至破綻が必須と思います。それなくしては、単なる改良でしか有り得ず、歴史的大改革への道は遠いものとなることでしょう。今や、正に後述するように、特に2005年秋頃から2006年に掛けて、国内外の虚構支配体制が大きく崩壊に突入し始めたように思います。

 さて、2冊目の本ですが、最初の本とは異なって別に緊急性もなく、私も敢えて周囲に積極的に献呈することもなく、ご関心がある方にチラシだけでも配布できたらと思います。平時において、積み荷の日本語の問題を思考するのは容易ではありません。正に難破寸前になって、思い切って積み荷を捨てるのか、それとも頑固に積み荷を死守して船もろとも沈没していくのかの歴史的選択に差し掛かって来たと言えるでしょう。余ほどの先見性や洞察力がないと、明確な将来展望が描けないのが通常の意識構造でしょう。真実は歴史が証明していくでしょう。幕末時でも、頑迷な尊皇攘夷に固執しておれば、日本は内戦の大混乱を迎え、列強に付け込まれて、香港のような状況になっていたことでしょう。

 私の本は沢山売れて幾ら儲けたと言う類のものではなく、要は中味の実行が大切でありますが、田中角栄氏ほどの大派閥を引き連れて官僚を大上段から管理操作でき、破天荒な発想が出来るほどの大政治家でない限り無理であり、今の政治家や官僚では誰も実行できないでしょう。経済界が総力を挙げて結集するか、私が抜擢されるしかありませんが、日本的風土や環境、国民性では余ほどの大破局が到来しない限り、殆ど無理でしょう。後日、外国が先に関心を呼んで、国民が無視したことの壮絶な懺悔となってくることを期待するものです。後世の歴史家が気付くように、歴史の記念としての出版でしかありません。

 恐らく、外国に出し抜かれて一部の先見性のある方々のみが懺悔する方が勝っているように思え、それ故にこそ、第3冊目の本と併せて、国民全体が無視し猛反発するからこそ、天下の大掃除が出来て、第2冊目の、「日本人の国民性では駄目だ!」の副題の本が生きてくるように思います。この国民性の原因が実に日本語にあると指摘するもので、これも誰も解明していない歴史的な研究成果であります。そして一部の有識者が混乱に気付いていても、美しい日本語や正しい日本語に再帰とか言った曖昧模糊の解決策か、カタカナや漢字を排除して言語鎖国をしろとか、ひらがなやローマ字表記にしろとかであり、全く時代に逆行する保守頑迷なものでしかありません。それに、目下、小学校や幼稚園から英語教育とかで、既に実施しているところも現れており、現場が大混乱しているようです。それに対する歴史的な問題提起でもあり、身命を賭して人生最後の勝負に賭けたものです。

 なお、日本語的発想や思考がその内に世界から見直されるなどと超楽観論を述べる方もおりますが、過去の国難の歴史的突破は国内外の環境によるものが大きく、むしろ今や、日本語自体が漢語やカタカナでメチャメチャに破壊された言語に堕落しており、その日本語的思考が、曖昧無責任で問題解決先送りの優柔不断で、実に国家破産に導こうとしているものです。その辺の因果関係を誰も整理し理解できていないようです。また、色々な考え方があるのですねなどと、傍観的無責任に感想を述べる方もおられますが、それこそ、結論や選択、評価や判断を曖昧にして、建前的な相対的思考しかできない日本人特有の心理や発想でしかありません。私は著書の中で、英語の圧倒的浸透の中で、日本語が次第に混乱し衰滅していくのを座して待つのか、言語鎖国をするのか、それとも思い切った歴史的大転換を成し遂げていくのかの、正に歴史的選択の岐路に来ていると指摘するものです。ただ日本人自ら積極的に、日本語を見直さなくても、2008年の国家破産でIMF管理になると、かつてのマッカーサーのように、外国から強制されて実行される可能性も高いでしょう。その折に際しても、悲観絶望的になるのではなくて、むしろそのような事態を招来した国民性を変革する好機と捉えていく問題提起をしているものです。

 目下、2冊目の本は殆どの方が猛反発されるようですが、これは愛国・民族的で真に日本の将来を懸念される中で、幾多の試練を経て大きく挫折されて、国家の将来や日本人の国民性に絶望しておられる方でないと容易に理解できないように思います。私の親戚の90歳近いおばさんは、日本人は利己的で自分中心主義だと言って大変理解しておりました。私も人生最後にそんな言葉を聴こうとは思ってもいませんでしたが、こうした感覚や経験を経てこないと理解できないように思います。また、先頃まで政権の中枢にいて、現在、失脚した某政治家も、四面楚歌になって始めて、日本人は利己的・自分中心主義だと公開の場で漏らし、ようやく国民性を実感できたようです。もっとも、失脚した真の霊的因果関係は、師匠の死に深く暗躍したことによる天罰であろうかと推察するものです。

 さて先日、第2冊目の本の紹介に際して、大学の研究者にメールで大量に送信したところ、早速、サーバーから迷惑メールの連絡があり、今後も実行するならばインターネット接続を全面的に禁止する警告がありました。書籍の情報提供を感謝と受け取るのか、迷惑と受け取るのか、実に日本人特有の形式に囚われた葛藤性でしかありません。メールの迷惑性は内容次第であり、ほんの1回のメールに迷惑だと拘るならば、インターネット上にアドレスを公開しなければいいのです。実に日本人特有の自分中心主義と言えるでしょう。

 ところで、現在の日本は国民貯蓄が1400兆円もあるとかで勤勉性が指摘されておりますが、これも見方を変えれば、自分のことだけ考えて貯め込んだとも言え、既に過剰貯蓄が経済の循環を阻害し、消費や投資を減退させ経済をおかしくしたとも一部の有識者からも指摘されております。それに、他方では、GDP比で2倍の歴史的にも例のない1千兆円もの巨額の公的債務を抱えており、これもある意味では、自分中心の利己的に考えて税金の国家予算にたかり奪い合い、後世のことや国家社会全体のことを考えてこなかった結果とも言えるでしょう。最早、2007,8年頃から国家破産の危機が表面化することでしょう。それ故にこそ、2006年内にも開始される米国のイラン攻撃と、それに伴う対抗措置として、イランによるホルムズ海峡封鎖による原油高騰と併せて、一挙に危機が表面化して来るに連れて、私の一連の本も注目を浴びてくることを期待するものです。野球で国民もマスコミが浮かれている背後で、壮絶な原油争奪戦が進行中であります。

 矢張り、危機が目に見えて本格化しなければ、正常に思考展開できないのが日本語を駆使する日本人の国民性であります。実に戦略的思考、未来思考が出来ない欠点を有するものです。既に、最近発行の本で「中国が世界標準を握る日」(光文社)で指摘されていますが、今や特許を大きく超えて世界標準に対する戦略で日本は大きく出遅れていくようです。私が指摘するように「国家的な特許戦略こそが日本の命運を決し、その戦略不在により、日本は三流国に転落していくであろう」の憂慮すべき事態が現実になろうとしております。こうした三流国家への転落も、実に国家戦略の欠如であり、国民性に他なりません。

 ところで、最初の火山灰関係の本は、昨今の原油高騰の情勢を反映して、緊急性もあって、現下の厳しい状況を鑑みて、国家的レベルで広く国民の関心を期待していたのですが、日本人特有の近視眼的で危機感も危機管理もなく、自分中心で利己的な国民性もあって、大して関心を持たれることもなく、一部の方を除いて、25年前と何ら変わりのないもので、殆ど無視、無関心、無感動の状態でした。チラシを大量に配布した割には、関心もなかったようです。もっとも、単にチラシを送付するだけでも、神聖で清浄な波徴を発信して、邪悪で猜疑な想念を一掃し廃絶して、充分な影響や効果があるというものです。

 壮大な国家プロジェクトを実行できる実行力と構想力に富んだ政治家や評価する者もなく、中味の実行にまでは至ることもないようです。今後の激動の国内外の情勢の進展や外国からの関心に期待するばかりですが、万一、世界が注目しなければ、壮絶な原油争奪戦に突入して世界が崩壊するは必定でしょう。一連の当方の本は、正に、昨今の原油高騰や、2008年頃に襲来する日本の多額の公的債務による国家破産に焦点を合わせて、新たな国家社会の建設に向けた指針・展望でもあります。実に、私の人生の運命と国家や世界の運命とが不思議と重なってきたように思います。

 万一、国民が差ほどの危機意識もないままに、国内的に大した大混乱や波乱もないままに、一方的に神風などが吹いて、日本が危機を突破して救済されることがあれば、国民意識の変革の機会も消えて、壮大な歴史的改革も実行されることもなく、曖昧模糊とした混迷の中に埋没して行かざるを得ず、結果的にはマイナスでしか有りません。それに、私の提案したプロジェクトも採用されることもなく、歴史的大改革の気運も歴史の闇の中に消えていくことでしょう。目下、中国の大躍進で日本経済は息を吹き返して、ある意味では、中国は日本経済復興の救世主になったわけですが、今後とも、中国によって日本が大々的に生き返っていくことがあれば、正に神風が吹いたとも言え、永遠に歴史的な改革も消えていくことになろうかと思います。他方で、中国自身も国内外共に大変な問題を抱えており、崩壊か大躍進かの歴史的岐路に掛かっているようです。

 米国も、2003年イラク戦争の開戦当初に私が予想した通りに、今や国内の大混乱で、16万の兵士によってもテロ攻撃を沈静化できずに、イラク制圧による原油支配にも進退窮まりつつあり、国内でも財政と貿易の巨大な双子の赤字を抱えており、ドル崩壊に危機に直面しつつあるようです。それに産油国のイランとベネズエラが反旗を翻したことで、世界の原油情勢に暗い影を投げ掛けております。もっとも、米国が二正面作戦を展開できないことを狙って、背後にはロシアや中国の陰を感じるものです。何れにしても、今年中には、米国による更なる開戦か米国の撤退か、軍事的にも大きな変化が生まれるでしょう。

 正に、日本に神風が吹いて、知らずの内に救済されるよりも、崩壊の危機が急迫化しているようです。その意味では真の神風になる革命の嵐が巻き起こる可能性も高まっているように思います。むしろ、危機が急迫する中で、救世主的勢力の登場により、正に真の神風が吹いて救済されていくことを祈念するばかりです。即ち、現在の指導者階層、支配階級の下での神風が吹いた救済よりも、大幅な指導者階層の主役の交替による意識変革及び改革実践による流れの変化であろうと思います。それでなければ、真の歴史的且つ世界的な改革が巻き上がっていかないと思います。恰も、幕末明治の維新においても、旧勢力によるものではなく、実に、下層階級による下からの革命に他ならなかったし、またそうでなければ、既得権益の一掃や既成概念の打破に向けたものとは成り得ないでしょう。

 なお、最初の本は私が目下所属している日本公共政策学会に会長賞を狙って投稿しておきましたが、審査委員は殆ど法律や経済などの文系のものばかりで何処まで理解できるのか解りません。最後は米国辺りの外国から注目されることを期待するばかりです。恐らく、その折には、本でも示唆しているように、セメント全く使用しない古代ピラミッドの技術の復活となるでしょう。その際には日本は莫大な特許使用料を払って実行するしかないでしょう。私も幾つか特許を取っておくことを考えましたが、むしろ国民性の変革に向けて、高みの見物を決め込むことが賢明であり、国家的損失も仕方ないものと思いました。

 なお、世界の原油資本が、今回の国家プロジェクト案を潰す懸念もありますが、これは原油高騰化や資源枯渇化で、彼らにとっても死活問題でありますから、これをしたら彼らにも天罰が下るように思います。例えば、日本でも経済産業省や石油業界が省エネを邪魔するとしたら国賊ものでしょうし、アスベスト問題が世界で関心を呼んでいるのに、アスベストの生産業者が邪魔するとしたら、世間から糾弾され、天罰を食らっていくのは必至でしょう。天罰と言えば、私を無視したり利用してアイデアのみを盗用しても、天罰を食らっていくものと思いますが、恐らく、万一表面化しても、政府はメンツを潰さないためにもそのような態度に出ることでしょうが、著書の最後でも「要注意」と警告を発しているものです。それ故にこそ、次の本が生きてくるのであり、最後には天罰により邪悪な想念が一掃できて、国家社会の改革に繋げていくことが可能になるものと思います。

 ところで、某筋から指摘された進化論ですが、私は火山から放出されている未知の謎の放射線・素粒子が、高エネルギー粒子や宇宙線、太陽光線などと同じように、生物の遺伝子や染色体に大きく影響を与えたことを示唆しました。今回の著作では紹介しておりませんが、平成4年に米国フロリダ半島で上半身が女性の人間で下半身が魚が発見された新聞記事もあります。その後にもタイでも、今度は上半身が魚で下半身が女性の身体を有したものが発見されております。アカデミズムの世界では殆ど無視しておりますが、決して荒唐無稽の作為的なものではなく、真実であり事実であったようです。恐らく、エルニーニョなどの海水の温度変化で表面化したものであり、人類の進化の過程で生じたものでしょう。それが偶々深海で生存し続けたと言うことかと思います。既に、デンマークの首都のコペンハーゲン埠頭でも彫刻として展示しているように、伝説となっている人魚が現実に存在したというものです。なお、外見の肉体も突然変異し進化しますが、霊魂も輪廻転生の下に進化します。目下、聖書の神は宇宙人とか、一部の悪魔崇拝宗教の奥の院の連中は思考や行動が爬虫類的人間だとか指摘されておりますが、正に、畜生死霊魂の転生・憑依現象に他なりません。三冊目の著作で霊魂や神仏、正しい信仰などを紹介するものです。

 地球人類史の中で、宇宙から生命の源を運んできたのは彗星であり、それが地球上で豊富な水によって育まれ、放射線や素粒子による照射などで突然変異を繰り返してきたように思います。今でも朝露の発生原理により、宇宙から豊富な水がもたらされておりますが、原油の宇宙由来と共に、誰も指摘し解明できていないものです。

 目下、米国では進化論を巡って、人間は神が作ったものであるとか、ダーウィンの進化論の何れが正解かで、国論が大きく分裂しており、時には殺人事件にまで発展しておりますが、正しい霊魂観が示され、輪廻転生や因果応報の原理が理解されていかない限り、即ち、精神と心、霊と魂、何時から魂魄が宿るのかなどと、堕胎の是非や、安楽死、植物人間の真相などを巡っても容易には解決できないように思います。これは三冊目の著作で、宗教的な考察、健全な家庭の在り方の点からも、ある程度、解明して紹介するものです。

 最初の著作の中には、実に、世界的大発見に値する仮説が豊富に含まれているものと自負しておりますが、果たして一体誰が気付き評価し採用していくのか全く解りません。恐らく、普通の感覚から言えば、歴史の闇の中に埋没していき、後世の歴史家が解明することでしょうが、今や2012年のフォトンベルトで太陽系全体が宇宙の強力な電磁波帯に突入することで、地球的規模の大惨事の到来で地球の滅亡がまことしやかに指摘されており、他方でアカデミズムの世界は全く無視しております。恐らく、このままでは人類は再度、石器時代を迎える可能性もありますが、他方で、次第に、人々が知らずの内に意識の変革が迫られるように、神聖で光輝な波徴が充満し蔓延し伝播していくように思います。

 ところで、最大の敵であるイルミナティ・ユダヤ・フリーメーソンの連中がピラミッドに拘り、ドル紙幣の裏側にも印刷して崇拝しているのも、実にピラミッドの建設に魔力が行使されたからに他なりません。ピラミッドの解明も、著作でも指摘するように、単なる歴史考古学的分析から、砂漠の砂、即ち火山灰を使った人工火山灰コンクリートであることに至り、更にはそれをも大きく超えて、実に魔力が行使されたことまで解明していかなければ真の解明とはならないでしょう。イルミナティの連中はピラミッド建設の魔力を知っている故に、今でも悪魔崇拝、魔力崇拝を数千年間に亘って実行しているものです。

 しかし、この悪魔崇拝の邪念波動も、既に2000年以降は大きく破綻してきており、2005年秋から2006年に掛けて、不思議と今回の一連の出版の時期を契機に、世界の虚構体制も崩壊し始めているように思います。これまでは、彼らが計画的に仕掛けた戦争や革命、混乱でしたが、今後は神仕組みによる天下の大掃除であり、邪悪な連中も制御不能に陥って巻き込まれて破綻していくように思います。一連の本は正に、国家を変え、国民性を糾弾し、世界を変え、実に、数千年来の国内外の常識、通説、慣習、意識を根本的に問題提起し、併せて歴史的な大変革を志向するものです。今後は5〜7年間を掛けて、歴史的世界的崩壊と創造を経て、日本から世界的改革の気運が生じてくることでしょう。

 なお、先の「新日本列島大改造の実践に向けて」の本は、日本人の大多数の国民性では殆ど灯台下暗しで理解できずに無視していくことでしょうが、私は世界が注目することを期待するものです。恐らく、世界中何処を探しても存在しない人類未知の謎のカバー写真から、世界のノーベル賞クラスの研究者が気付くことでしょうし、また気付かなければ、今回、著作で提案した国家的プロジェクト自体の壮大さにも気付くこともなく、世界は資源・エネルギー問題で大きく行き詰まっていくことでしょう。他にも、画期的な提案が多く含まれておりますが、日本人の猜疑心旺盛な国民性では理解も評価も不可能でしょう。他方で、この著作から、世界の霊感者が不思議な波動を感じて来ることでしょう。

 私の一連の本は、実に失われたムー大陸などの超古代文明における魔力崇拝の実態や崩壊の真相、古代ピラミッドの建設技術や材料、手段の解明、そして来るべき地球規模での天変地異の回避に向けて、何らかの示唆を提供するものです。恐らく、カバー写真の解明が出来た暁にこそ、火山灰の不思議な謎を始め、巨石文明の謎、地球や人類の進化や、桜島大根の巨大さやガラパゴス諸島の不可解な謎の解明も可能になるものでしょう。

 なお、今後書くべき本は、司法や行政、立法などの具体的な法制度の整備に関するものとなるでしょうが、既に資金的にも限界があり、また、これは然るべき社会的地位にあって実行可能でない限り、著作で書いていくものではないように思います。そうでないと、多くの出版物と同じように、単なる評論で終わってしまい、何ら社会的改革へのインパクトにも成り得ません。即ち、無関心の前に幾ら本格的な解決策を公開しても無意味だと言うことです。今回の本は偶々緊急性があって紹介したものですが、それでも全く無関心の状況でしかありません。そして第2冊目の国民性と日本語との関連性に関しても、1,3冊目の本を無視する国民性を糾弾し、また誰も指摘していないこと故に、後世の歴史家が先見性や洞察性を解明できるように、記録に残し指摘しておくものでしかありません。
 

ご返事遅れ申し訳ありません。

 投稿者:T.Y  投稿日:2006年 5月21日(日)10時18分40秒
編集済
  啓上
 ご返事遅れ申し訳ありません。
 実は、九十の坂を越してから体力と気力共に弛緩した為に、返書遅れてしまいました。それに風邪に罹り休養しておりました。
 殊にアメリカの属国化した日本に生き永らえているため、気力を喪失、生き乍ら精神魂は死にかけている気がします。
 歴史が定まっていないアメリカにリードされている現下の日本は半死半生ともいうべきでで、国名は今昔同じだが本質が全く違う国と化している。
 今日日本は独立国家ではなく、アメリカの属国である。主体と客体の差は主従の差を生ずる。人と人の差は人と猿よりも甚だしいものである。人間は神と動物の中間的存在で神たらんとする者と、金銭が目的で唯物的人間とに分かれる。
精神を失った人間、肉体的存在の動物人間とは同じ人間でも神と人間の差別は、雲泥の差、成り立てる。
 私は最近、人間の質は学歴学問より性質性格が大事であり大切であることを感じて居ります。日本人が家を尊び人の本質を重んずる事が少しわかって来ました。
 アメリカには、その政府閣僚の中に、反日的非実的人物が少なくとも六割は居ると見るべきである。
 日本はアメリカ化してはならない。日本は日本の本質に立ち戻らなければ亡国の運命を辿ることになる。
 最近、日本語を排し英語を国語にしようとか様々いう人が居り、著者が沢山出て居ります。
 歴史や固有性を失って居る人が居ります。これは西洋模倣の結果、自己喪失のためであると思います。
 個性固有性の失いは、最早、国家国民ではない、自己喪失は亡国である。
 私とか自分とは、人間の存在意識をいうものである。人間が人間であるこの人間にとって最も大事大切なことだと思います。
 貴殿から良書頂戴し、目下、毎日時間得て読んでおります。
                                    T.Y
○○ 様

平成十八年三月二十二日
 

議論下手で自己主張しない日本人

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 5月11日(木)21時58分13秒
   日本人社会では普段は和気藹々としておりますが、一旦議論をするとすぐムキになり感情的になって喧嘩になる日本人が大多数です。特に知能的な有識者ほど嫉妬や妬みに狂っていく精神的荒廃の凄いものを痛感します。意見や見解を言うと、批判や非難に受け取って弾圧封殺し、これ以上何も言うなと恫喝する有り様です。特に、日本語で、「わかった」と言うのは、必ずしも、同意、賛成、支持という意味ではなく、単に話の内容を理解した、何を言っているのかを理解したという程度である場合も多く、時には、「わかった、わかった」と連発する時は、「うるさい、黙れ」の意味であることもしばしばです。この「わかった」には、「分かった、解った、判った」がありますが、果たして何れの意味で使っているのか、全くワカりません。そこまで厳密に意味を理解して使い分けている者は皆無でしょう。そしてすぐ年齢や肩書きなどの外見、姿形、形式を気にして攻撃することが多いようです。「黙って人の言うことを聴け」などと言いながら、自分は人の話を聴かないことも多いようです。

 また天下国家に関する議論をしても、すぐ個人的問題にすり替えて攻撃する有り様です。即ち、国家や国民を批判しても、自分が批判されたと錯覚するほどに、葛藤性に富んだ単純でナイーブな感性であるようです。当方の、日本語に関する欠点の分析や疑問に対しても、「それでは日本語を使うな、日本から出ていけ」などと言う者もおり、全く議論にもならず、単純、短絡、単細胞、幼稚的思考により感情的・神経質になって、意見や指摘、提案などを非難、中傷、攻撃と受け止めたりして、嫉妬や妬みの下に、(批判などしていないで)謙虚になれ、夢を持てなど(遠回しに黙れ)と言って、逆に説教することが多いようです。むしろ、当方の見解に対して反発する者にこそ、「カタカナ外来語を安易・自由・勝手に使うな」と言いたいものです。実に、思考停止、思考分裂を招来させている、自己矛盾の実態に何ら気付いていないのが、日本人の国民性とも言えるでしょう。要するに、論理的思考や哲学的思考には全く不向きで不得手であるようです。

 実に意見や主張、批判や批評を封じ込め圧殺し黙殺する国民性が、外国からの批判・攻撃に対して逆に的確に対処も出来ずに、是非、諾否を曖昧模糊にして付和雷同し、右往左往し右顧左眄する由々しき現状を招来させていると言えるでしょう。聖心先生も、米国人は普段は議論し対立することがあっても、いざとなれば皆がまとまっていくのに対し、日本人は普段は協調し和合し合っていくが、いざとなれば皆バラバラになると言っておられ、この原因や背景は、実に無理に批判を封印し抑圧し、曖昧模糊にして思考停止、無責任に陥っていくからだと言っておられました。日本の和合とは実にその本質は、見せ掛けの虚構に満ちた野合に他ならないものではないでしょうか。

 この批判を封じ込める日本人特有の国民性は、ある面では、無益な対立を排除させていく良い場合も過去にはあったようで、現在でも、国民社会の中にも少なからず残存しておりますが、今や国際環境から言っても欠点や欠陥が多く、その現代的マイナス面を指摘しているものであります。議論を回避し和を尊ぶ対応を長所だとするのは、状況や背景、因果を無視した方便・詭弁・誤魔化しでありましょう。言うべきは言い、反論すべきは反論し、行動すべきは行動する、これぞ国際社会に求められている毅然とした正義感・信義感の溢れる外交であり交際であり、真摯で真剣な生き方・付き合い方でありましょう。

 物言わぬ腹芸や阿吽の呼吸、以心伝心、根回し、沈黙は金などの美徳や謙虚心の押し付け・強制、自己主張もさせない批判封じ込め、そして急に「話せば分かる」など言うような、後ろ向きの消極的で縮み志向の自分中心の思い込みの会話は、世界には通じないと言えるでしょう。話せば分かるのなら、最初から話して分かり合うべきでしょう。経済活動の社会でも契約観念すら厳しく求められているもので、なあなあ・まあまあの集団主義の談合・野合社会では全く通じないでしょう。仮に通じるとすれば、昔風の親しみ寄せ合い慈しみ合う日本人の仲間同士、或いは、馴れ凭れ集りつるみ合う狡猾漢同士だけであり、閉鎖的な閉じ籠もりの人間関係でしか通用しないと言うことでしょう。

 さて知り合いの某外国人が、日本人を嘘吐きだと言っていましたが、軽々しく口にした約束を平気で破っていくことに対する嫌悪感に他なりません。契約観念に乏しい日本人の発想ならば、曖昧模糊とした軽々しい返事を連発して行き易く、また状況が変われば、安易・気軽に言った言わないで変更して行き易いのですが、世界的には通用しないことが多いようです。日本人ならば、そんな口約束を信じる方が可笑しいとでも言うのでしょうが、日本人の曖昧模糊とした対応が、今や世界的常識からも逸脱してきたようです。

 余談ですが、最近の中国による日本の知的財産権の模倣やコピーの蔓延に見られるように、同じアジア人でも中国人の方が、ビジネス面でも日本人よりも契約を遵守する意識もなく、狡猾に豹変させていく面があるのも確かでしょう。日本のずる賢い国民性は、案外、一回りも上手の中国大陸伝来か、韓国などの北東アジア人に共通のものかも知れません。
 なお、日本人、韓国人、中国人などの国民性の違いとして、例えば、人の物を盗ったことが見つかったら、大多数の本来の日本人は、ばれたら潔く顔を赤らめて済まなかったと反省し自虐するものですが、中には、盗ってもいないのに、何も反論もせずに黙っている者もいるくらいです。韓国人の場合は、「それなら返せばいいだろう」とくるようで、窃盗罪は盗った段階で既遂で犯罪成立であり、返せば未遂や無罪放免となるものではないことが分かっていないようです。また中国人の場合は、「盗ったと言うが、自分の物だと証明できるか。証明できないで人を泥棒呼ばわりするな。謝罪して慰謝料を払え」と逆襲することもあるようです。迂闊に指摘したり、謝罪しようものならば、弁償が付きまとうのは世界の常識のようです。今や日本社会のように、謝罪を単なる言い訳や弁解に考えていては、世界に通用しないのも確かでしょう。

 知的財産に関しても、中国人は「知的財産を尊重せよと言うならば、紙や火薬、羅針盤、印刷術などの世界的大発明は中国人が考えたものだ。世界は中国に使用料を払え」と言っており、日本にも、「知的財産とうるさく言うならば、中国が発明した漢字や中華料理を勝手に使うな、漢字や中華料理の使用料を払え」などと言っていますが、現在、中国が使用している漢語で、近代明治になってから出来た政治、経済、法律などの分野における西洋外来語は、何と七割ほども、日本が翻訳し発明したものであり、むしろ中国こそ勝手に使うなと言い返したいものです。

 なお、某有識者は、日本人は集団では行動できるが、個人では何もできないなどとも指摘しております。日本人は自立できない行動特性を反映して、自己主張や議論が出来ない精神構造を形成しており、建設的な批判をしても阿諛・嘲笑・非難と受け止めて葛藤しやすく、議論をすれば直ぐ感情的対立に至って口論喧嘩になり、この点は同じ北東アジア人でも韓国人とは大きく相違する点でしょう。韓国人などは延々と議論をし、食事の時間が来たら仲良く一緒に食事をし、その後再度、議論をするという具合です。これは白黒、善悪、勝敗、優劣を明確にしていくもので、議論の敗者や論理破綻者は勝者に従うという原則を実践しているものでありましょう。しかし、これは大多数の日本人にはしつこいと感じ、議論は面倒だと言って嫌悪し反発し排斥する傾向にあり、外交交渉面でも敗退している心理的背景でもありましょう。こういう世界の常識が日本人社会には欠けていると思われるから、世界的にも表舞台でも物言わぬ穏和でおとなしいことが、謙譲の美徳と言わんばかりの日本人像を醸成しているのでしょう。

 ところで、某有識者によると、アメリカでは、初等教育の頃から話し言葉を重視した教育が行われており、何か珍しい物を持っていって説明する「ショウ アンド テル」、理路整然と意見を主張して相手を説得する「ディスカッション」、信条に関係なく賛成派と反対派に別れて討論し、聴衆を共感させる技術を競う「ディベート」などと、実に多様な口頭発表訓練が行われているようです。書き言葉優先の日本語を使用する日本人は、何れも不得手であると言えましょう。ところが、ある専門家は、真のディベートとは、外国のように、詭弁を使ったり偽善的な方法ではなく、よって日本独自のディベートを世界に向けて発信することが大切だなどと言っているようですが、具体的に如何なるものが日本的なのかまで明らかにしてはいません。実に曖昧な日本的な発想でしかなく、これでは世界を相手に議論も出来ない国民性であることを自認するものでしょう。それに、詭弁や偽善を論破するのもディスカッションでありディベートではないでしょうか。なお、今や現在の日本社会には、曖昧な表現で主張や責任を曖昧にし、外国以上に詭弁や偽善が横行しているように思います。
 

堕胎の是非に関して

 投稿者:不動明王  投稿日:2006年 5月 2日(火)00時04分11秒
   今や米国では、堕胎の是非を巡って国論を二分し、生命倫理観を反映して、宗教的対立論争にまで発展している状況だ。そして堕胎を実施した医者や関係者が、何と殺害される非常事態にまで過熱しているのが現実だ。こうした由々しき米国の現実を、如何に解決していったらよいのであろうか。幸か不幸か、日本では、差ほど問題化していないが、実に、国情もさることながら、日本でも、何時でも表面化してくる可能性もあろうと思われる。

 目下、日本でも毎年一〇〇万もの堕胎児が生まれてくるそうである。優生保護法の下に堕胎が合法化されており、そうした堕胎に憤りを感じる人も多い。堕胎で産まれてくる子供は、器具で子宮から掻き出され、ミンチのように潰されて廃棄物同様に捨てられる有り様を残酷に感じて許せない感情になるのであろう。

 日本では、巧妙に建て前と本音を使い分け、建前と本音の乖離が、何の疑問も無しに、曖昧模糊の無責任のままに堂々と罷り通る国民性が背景にあるようだ。そこで、表面の建前上は優生保護法を掲げて、堕胎を禁止処罰しているが、裏面の本音に関しては、曖昧模糊の融通無碍の国民性もあって、実に、堕胎は刑法犯罪の対象にもなっていないかの如く、自由放任の状況である。

 この堕胎の是非を巡る論争は、科学的・実証的に決着できるものではないが、合理的思考で判断すべきであろうと思われる。即ち、常識的に考えても、堕胎は、倫理、道徳に反しているからと言って、一律に厳禁していくことには無理があるように思われる。例えば、不倫で出来た子供も、また一時の快楽で出来た子供の、経済的側面や人間の本能的側面を考慮することなく、一律に堕胎を禁止するというのも、神仏は人間にそこまで厳格な道徳・倫理を、無理難題に押し付けているものとは思われない。即ち、動機や原因の如何を問わずに、結果のみを見て、性交を全て出産のみを目的とした崇高な行為として、一時の快楽や、強制・不本意な性交により妊娠した者にも、生命道徳倫理観を強調して、また、育児などの経済的資力の有無も問わずに、出産を強制出来ないのは明らかであろう。この不本意な妊娠を是正するべき堕胎を、一律・画一的に悪と断罪して禁止したり、また自由意志に基づく自己責任の問題に帰着して、出産・育児を強制出来ないのも確かであろう。

 今や、生命体としての魂泊が宿るのは、精子と卵子の結合時か、それとも出産の時か、一体いつの段階かで、専門家の間でも見解が錯綜し対立している状況である。そこでかつて、聖心先生に、霊顕と顕証による偉大な仏智恵としてのご見解を拝聴したところ、妊娠三カ月で、母胎に「心霊」が宿り、未だ生命体としての魂の存在はないということであった。そして、出産直後には「霊魂、即ち、魂泊・魂魄」が宿ると言われた。この魂泊・魂魄でこそ始めて生命体と言えるものであると言われた。

 そして、妊娠三カ月での堕胎は、医学的にも母体も安全で、胎児の死亡にも関係せずに大丈夫ということであり、従って、水子供養は不要というものであった。逆に、妊娠三カ月を経過した時点での堕胎は、母胎の生命にも危険が及ぶものと言われた。そこで、堕胎の是非は、心霊と魂泊との相違と、母体の安全との関係で考えることが大切であろうと思われる。即ち、堕胎の是非は、母体が比較的に安全な妊娠三カ月を境に判定するのが極めて合理的であろうと思われる。

 実に、母体が危ない危険水域に入ったと言うことが、宿った胎児と生命を分かち合うと言うことになり、魂泊、魂魄の形成を感じるのであり、これを境にして魂レベルでの殺人的行為と言えるのではないかと思われる。性行為と同時に、全ての堕胎を禁止したり、水子供養を厳しく強制することは、合理的に考えても不自然であり、神仏の要求せざるところではないものと思われる。

 なお、フランス大使館関係者の話によれば、フランスでは一二週間までの堕胎は許されているそうだ。一二週間ということは、当方の提示する三カ月に相当することになる。フランスは一体どういう理由で一二週間と決めたのか解らないし、当の大使館職員も良く解らないらしいが、案外、真実に適った合理的な対処ではないかと思われる。なお、米国では、堕胎を巡り、国論を分裂するぐらいにまで、議論が沸騰している状況であるが、聖心先生のご見解を採用していくことが望ましいのではないかと思われる。

 今や、二一世紀に突入した現在、新たな文明史を切り開いて行くに際して、実に、霊魂や、宗教、信仰等に対して今一度、真剣に検討し、新たな概念の構築と共に、各種の法制度に於いても反映させて、真実で真正なる方向を目指して行かねばならないものと思われる。これまでの醜い宗教的対立や混乱に対して終止符を打つためにも正しい真理を追究し、迷信を打破していくことが大切であろうと思われる。歴史的な難問に対して、日本から合理的な倫理観を大胆に提示して、堕胎の是非を巡る世界的な論争に一石を投じる時期に来たように思われる。
 

定野邦男さまへ

 投稿者:意宇之国主  投稿日:2006年 3月10日(金)22時19分9秒
   やはり封印された古代出雲の古都は安来だったのですね。  

堕胎について

 投稿者:路傍の石  投稿日:2006年 2月13日(月)02時01分37秒
  掲示板の(1)にさきほど投稿しましたが、ここでもう一度、投稿させて頂きます。

胎児の魂は、受胎する前から生きておりまして、「どの親のところへ行こうかな」と、親を選んで受胎してきます。

ですから、受胎したときに、既に生命がやどり、意識もあるので、これを堕胎することは、妊娠初期の三ヶ月以内であろうとも、殺人であることに変りはありません。

最近の世の中の乱れの大きな原因が、堕胎された胎児の怨念に由来することは明らかであり、それには、三ヶ月未満の胎児の心も入っているわけですから、本件につき、再検討されることをお願い致します。
 

以上は、新着順21番目から40番目までの記事です。 1  2  3  4  5  |  《前のページ |  次のページ》 
/5 


[PR]